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帝王編年記

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帝王編年記
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帝王編年記』(ていおうへんねんき)または『歴代編年集成』(れきだいへんねんしゅうせい)は南北朝時代に成立した神代から後伏見天皇代までの年代記。『新訂増補国史大系』第12巻所収。

概要 編集者, 国 ...

概要

本作は現在27巻からなり、日本以外にもインド中国、すなわち三国の歴史や仏教の歴史を扱う年代記である[1]。内容的には巻3以降は天皇ごとに即位前記→即位記事と仏滅起源・中国暦との対応→年代記→皇太子・皇子女・斎王・後宮・要職者の名簿で構成される[2]。これらは「群書類従本「皇代記」系統に属する年代記を基盤に、『皇帝紀抄』を最も主要な材料として」(平田俊春)いると考えらている[3]。なお、本作では神武天皇元年(参考:紀元前660年)を僖王3年(紀元前679年)としている[4]。また興味深いことに、孝元天皇部から舒明天皇部で、皇太子を「太子」と書いており、皇太子号の変化の認識を示しているのかもしれない[3]

本作の序によれば、「釈門の逸才」たる自分が既存の「帝王編年の書」は「未だその機要を撮っていない」として書いた年代記であり「録して27巻」「号して帝王編年記」としたという。なお、「録して30巻」「号して歴代編年集成」となっているバージョンもある[5]。さらに「尊経閣文庫本」全6冊には「七帖之内」や「第七巻欠」の記載があり、本来は30巻が正しいかもしれない[6]

同じく「尊経閣文庫本」の識語から釈永祐撰とわかるが[7]、永祐については杳として知れない[8]。また写本は近世のものしか知られず[6]、本作の存在を同時代記録から知ることもできない[9]。一応、成立年代は光厳天皇を光厳院、光明天皇法皇と呼んでいるため、光厳崩御後から光明崩御前(1364年 - 1380年)とされる[10]。さらに巻第1冒頭に「震旦三皇大元」とあるため元の大都放棄(1368年)以前とも言われる[11]

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評価

六国史等を材料とした簡略なる編年史であって序文に讃美して居る如きものではないが、後世散亡した史料に拠ったと思わるる記事があって往往正史の欠を補う所あることも亦扶桑略記と似ている。

内容

さらに見る 巻第1, 巻第2 ...

「新訂増補国史大系」を基に作成。

出典

参考文献

関連項目

外部リンク

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