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徳川宗尹
江戸時代の一橋徳川家初代。徳川吉宗の四男。従三位、参議、贈権中納言。子に徳川仙之助(小五郎、早世) ウィキペディアから
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徳川 宗尹(とくがわ むねただ)は、江戸時代中期の武士。御三卿の一つである一橋家初代当主。一橋 宗尹(ひとつばし むねただ)とも名乗った。
概要
江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の四男。母は谷口正次の娘・於久(深心院)。第11代将軍家斉は孫、第12代将軍家慶は曾孫、第13代将軍家定と第14代将軍家茂はそれぞれ玄孫にあたる。
享保20年(1735年)、3万俵を賜り一橋徳川家を創設した。順次加増され、延享3年(1746年)には10万石となった。この時期、吉宗は宗尹を福井藩主の松平宗矩の養子にしようとしたが両者の年齢が近いことから見送られ(当時宗矩は33歳、宗尹は27歳)、代わりに宗尹の長男小五郎(重昌)が越前家に入ることとなった[2](後に重昌死去により三男仙之助(重富)も越前家を相続)[3]。
人物
多趣味であり、とりわけ父の吉宗に似て武芸を好み、鷹狩りを頻繁に行ったが割り当てられた回数では不足したため、兄の田安宗武と交渉して割り当て枠を譲ってもらい、返礼に狩りで獲った鶴の血や骨を贈ったと伝わる[4]。反対に宗武が鷹狩りに出る際は、宗尹から道具や鷹を借りた記録が残る[4]。鷹狩りの際、福岡藩主黒田家の菩提寺であった渋谷村広尾の祥雲寺に立ち寄った記録が多数残る。
陶芸や染色もたしなみ、手染めの手拭いを家臣に与えたり、手作りの陶器を父の吉宗に贈ったりしたほか、兄の家重や家治に羊羹をこしらえて献上している[5]。
父の吉宗からも寵愛されていたようで、宝暦元年(1751年)6月19日、死去する前日の吉宗を見舞いに江戸城西丸に登城した際、特に面会を許され、病室にて対面している[5]。
経歴
※日付=旧暦
- 1721年(享保6年)閏7月15日 - 誕生。22日 - 松平小五郎と名付けられる[6]。なお、母の深心院は同年に22歳の若さで病没。
- 1735年(享保20年)9月23日 - 元服して宗尹と名乗り、徳川姓を称する。従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。3万俵を賜る。
- 1737年(元文2年)10月18日 - 2万俵の加増。
- 1740年(元文5年)11月18日 - 江戸城一橋門内に邸を賜り、1万俵加増。
- 1741年(寛保元年)11月25日 - 一橋邸を定住とする。
- 1745年(延享2年)11月2日 - 参議に補任。
- 1746年(延享3年)9月15日 - 10万石を賜る。
- 1764年(明和元年)12月22日 - 薨去。法名は覚了院殿冬巌性達大居士。
- 1770年(明和7年)10月4日 - 贈権中納言
系譜
宗尹が登場する作品
脚注
参考文献
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