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御前埼灯台
静岡県御前崎市の灯台 ウィキペディアから
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御前埼灯台(おまえさきとうだい)は、静岡県御前崎市御前崎に立つ灯台。
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概要
国の重要文化財[2]や、日本の近代化産業遺産に認定されており、日本の灯台50選にも選ばれている[3]ほか、歴史的・文化的価値の高さから、Aランクの保存灯台に指定されている。
なお地名は「御前崎(おまえざき)」だが、灯台名は「御前埼(おまえさき)」である。
歴史
要約
視点
昔から遠州灘は航海の難所でこの沖の岩礁で座礁、難破する船も多かった[4]。特に御前崎周辺は、黒潮と駿河湾の瀬流が激しくぶつかり合う上に、御前岩という東西150m、南北1,100mにもおよぶ暗礁群があり[5]、この中で大根・ドイ根・傘島・赤島などと呼ばれる露出岩が干潮時には波頭の間に時々見られる[5]など、昔から海の難所として船人に恐れられていた[2]。さらに御前岩の周辺はちょうど、名古屋港・清水港・四日市港を結ぶ重要航路の変針点に当たり、これまで海難事故が絶えなかった[5]。明治18年から昭和33年までの海難記録によると、150隻余の船が暗礁に乗り上げ多くの犠牲者を出している[5]。
1635年(寛永12年)現在御前埼灯台がある場所に高さ2.8mで3.6m四方の見尾火灯明台が作られた[2]。見尾火灯明台は海上から見える三面を油障子で囲み、中央に油灯を置いたというものだった[2]。
しかし1871年(明治4年)4月8日、江戸幕府が建造した軍艦が、岬の沖合のセイゴ根に座礁する事故が発生したため、明治政府は事態を重視して高さ5mの台に2.6mの八角形のガラス張りの灯室のある灯明台に改良し、灯明台専任の勤番を置き、下役5名を灯明堂近くの五軒長屋に住まわせるという対応を取った[2]。
1872年(明治5年)に、「灯台の父」と呼ばれる英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導のもとに工事が開始され、1874年(明治7年)5月1日に点灯を開始した[1]。その後、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月24日、艦載機と艦砲射撃によってレンズや灯器が破壊され、 灯塔も銃弾を浴びた[2]ため、戦災復旧工事が行われ、建設当初のレンガ造の灯塔を保ったまま美しい灯台に復元された[注 1]。
年表
- 1635年(寛永12年) - 見尾火灯明台だ作られる。
- 1871年(明治4年)4月8日 - 江戸幕府が建造した軍艦が座礁する事故が発生。
- 1872年(明治5年)5月26日 - 起工。
- 1874年(明治7年)5月1日 - 完成、初点灯[1][2]。
- 1917年(大正6年)8月23日 - 1,000W白熱電灯が使用される。
- 1928年(昭和3年)7月26日 - 貴族院書記官長の成瀬達、同書記官の長世吉、瀬古保次らが視察[6]。
- 1929年(昭和4年)5月12日 - 静岡巡覧中の賀陽宮恒憲王が御成、灯台局長の広幡忠隆侯爵が出迎えた[7]。
- 1945年(昭和20年)
- 1949年(昭和24年)3月24日 - 戦災復旧工事が完成。
- 1970年(昭和45年)6月25日 - 梅雨前線豪雨により灯台直下でがけ崩れが発生[9]。
- 1981年(昭和56年) - 無線方位信号所(レーマークビーコン)を設置。
- 1983年(昭和58年)1月〜3月 - 灯塔の補強工事を実施。
- 2009年(平成21年)2月6日 - 日本国近代化産業遺産に認定。
- 2021年(令和3年) - 灯台と旧官舎が重要文化財に指定。
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構造
灯台の高さは、地上から塔頂までが22,47m[1]、平均海面から灯火までが54m[1]、地上から灯火までが17m[2]。白亜の塔形をしたレンガ造の大型灯台である[2]。
付属施設として、無線方位信号所(レーマークビーコン)と御前埼灯台資料館が設置されている。
観光

- 一般公開
- 一般公開されている参観灯台で、小学生以下は無料、中学生以上は300円の参観寄付金を支払うことで上まで登ることができ[2]、灯台上からは太平洋を一望することが出来る。周辺は御前崎遠州灘県立自然公園に指定されている。
- 灯台周辺
- 灯台周辺には御前崎グランドホテル、旅館潮見荘、民宿みつる、おまえざきユースホステルなどの宿泊施設がある。
交通アクセス
公共交通機関
車

登場する作品
脚注
関連項目
外部リンク
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