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徳吉一己

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徳吉 一己(とくよし かずみ、1941年2月1日 - )は鹿児島県姶良郡牧園町(現・霧島市)出身[2]の元騎手・現評論家

概要 徳吉 一己, 基本情報 ...

騎手出身者として初めてJRA競馬学校騎手課程の教官となった。

同じくJRA騎手であった徳吉孝士は実子。

経歴

実家は数頭の馬を飼っており、中学生の時から競馬好きの兄に連れられて公営鴨池競馬場を訪れ競馬にも親しんだ[3]。中学3年次には小柄であったことから騎手になることを勧められ、中央競馬の騎手養成長期課程を受験[3]。合格後騎手養成所に入り、1958年に東京森末之助厩舎よりデビューし、同年9月7日にイチツバメで初勝利。

1968年目黒記念(秋)メジロタイヨウをはじめ、ヤマブキオーで重賞3勝を挙げるなど、数々の重賞勝利馬に騎乗した。“レースを操る職人”としてその名を知らしめ[4]、騎手生活晩年には日本騎手クラブ副会長を務めていた[5]1993年初頭にJRA副理事長から競馬学校教官への転身を打診され[5]、同年2月28日をもって騎手を引退。通算成績は4994戦536勝、うち重賞14勝。なお、引退レースとなった同27日中山第7競走新馬ではセントバルカンに騎乗して1位に入線したものの、審議があり6着への降着処分が下された。本来ならば6日間の騎乗停止(当時は原則として、降着・失格となった競走が行われた翌日から適用)となるが、翌28日で騎手免許を返上することになっていたため、騎乗停止はその日のみ適用という形になった。徳吉は引退後に行った杉本清との対談において、騎手生活の「一番の思い出」としてこのレースを挙げ、「これから教官になろうという人間ですからね、これは一生思い出に残るでしょう(笑)[3]」と語った。

翌3月より競馬学校で後進の指導に入り[5]、同年入学した第12期生からは福永祐一和田竜二などの騎手が輩出され、「競馬学校花の12期生」と呼ばれた。鬼教官としてならしていたが[4]2001年には森厩舎の弟弟子であった蓑田早人に後任を託して退職。以後は評論家として活動し、東京中日スポーツにて予想コラム「鬼教官の徳ダネ!」を連載[4]競馬予想会社「七騎の会」スタッフも務めている[6]

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通算成績

要約
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主な騎乗馬

※括弧内は徳吉騎乗時の優勝重賞競走。

その他
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出典

参考文献

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