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松平重昌
江戸時代中期の大名。福井藩第11代藩主 ウィキペディアから
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松平 重昌(まつだいら しげまさ)は、江戸時代中期の大名。越前国福井藩11代藩主[注 2]。
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生涯
寛保3年(1743年)8月22日、一橋徳川家の当主・徳川宗尹の長男として江戸で誕生した(「一橋徳川家記」)[3](福井松平家の家記では23日としている)[4]。母は一条兼香の娘・一条顕子[3]。同年9月1日、8代将軍徳川吉宗により、父・宗尹と同じ幼名「小五郎」を授けられる[5]。
延享4年(1747年)6月12日、幕命により、福井藩藩主・松平宗矩の養子とされ、於義丸と改名する[3][4](於義丸は、藩祖・結城秀康の幼名である[6])[注 3]。
寛延2年(1749年)10月21日に宗矩が没したため、同年12月7日に襲封した[3][8]。
宝暦5年(1755年)6月13日に元服し、家重から偏諱を授けられ重昌[注 4]と名乗り、従四位上左近衛権少将兼越前守に叙任される[3][9]。
宝暦8年(1758年)3月18日、16歳で死去した[3][9]。法名は源隆院[3]。
尾張藩藩主・徳川宗勝の七女・品姫(瓊樹院)と縁組していたが、婚姻前に重昌が死去した[10]。品姫は、のち松平頼前に嫁いだ[11]。
死後
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藩政
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若年で相続し、早世したため、治世時の業績は直裁ではなく、おおよそ家臣らの手によるものである。相続前に幕府からの預所が全て幕府直轄となった。これは藩としては減収となる。さらに地域を天候不順が襲い、領民の逃散が多く、藩は困窮する領民に米を貸し出している。また、洪水や津波、凶作などの天候不順に見舞われている。
宝暦6年中には「他国商為替銀貸付会所」を設立している。
宝暦6年(1756年)1月22日、飛騨郡代支配下の幕府領丹生郡本保村にて本保騒動が起こり、26日には鯖江藩と共同で鎮圧のために出兵している。大きな騒動は収まったが、その後も越前国内は不穏な動きが相次いだ。
脚注
参考文献
外部リンク
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