トップQs
タイムライン
チャット
視点
敦賀丸
ウィキペディアから
Remove ads
敦賀丸(つるがまる)は日本郵船の貨物船[9]。T型貨物船(T型船)と呼ばれるものの一隻[10]。
Remove ads
船歴
三菱合資会社長崎造船所で建造され[6]。1915年(大正4年)4月28日に起工[2][3][4]。1916年(大正5年)3月8日に進水し[2][3][4]、同年6月15日[2][3][4]、または同年6月13日竣工[5]。
竣工した「敦賀丸」はニューヨーク線、ハンブルク線、リバプール線などに配された[11]。第一次世界大戦中には、地中海派遣艦隊への物資や兵員の輸送のため開設されたポートサイド航路に配されている[12]。
1937年(昭和12年)8月25日、「敦賀丸」は陸軍に徴用されるが[13]、1938年(昭和13年)3月30日に一旦解傭[13]。解傭後はハンブルク線に配された[14]1940年(昭和15年)6月10日、第二次世界大戦にイタリアが参戦したことに伴い、日本郵船は近東伊太利線の休航を決定[15]。「敦賀丸」は同航路の最終船として同年6月20日に横浜を出港し[16]、8月9日にアデンに到着[16]。翌10日にアデンを出港し[16]、10月1日に横浜に到着した[16]。
1941年(昭和16年)7月21日、「敦賀丸」は陸軍に再度徴傭される[17]。1942年(昭和17年)1月、タラカン攻略に参加[17]。攻略部隊は1月7日にダバオを出撃し、10日から11日にかけて上陸が行われた[18]。続いてバリクパパン攻略に向かう[19]。攻略部隊は1月21日にタラカンを出撃し、23日に船団はバリクパパンの泊地に入った[20]。この時「敦賀丸」には坂口支隊の野砲兵大隊本部、野砲一中隊、高射砲大隊本部、同第二中隊主力、衛生隊主力などが乗船していた[21]。1月24日0時35分、0時40分、もしくは0時45分頃、「敦賀丸」は被雷した[22]。これはオランダ潜水艦「K XVIII」の雷撃によるものであった[23]。「敦賀丸」は同日6時ごろに沈没した[5]。戦死者数について、『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」(辰馬汽船、5,091トン)の合計で約30名[24]、『蘭印攻略作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」が沈んだが、それによる坂口支隊の戦死者は39名であった[25]、とある。「敦賀丸」乗組員の戦死者は1名であった[26]。この後、バリクパパン攻略部隊はアメリカ海軍のクレムソン級駆逐艦4隻の襲撃を受けて輸送船3隻を撃沈されてしまう(バリクパパン沖海戦)。
Remove ads
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads