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敦賀丸

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敦賀丸(つるがまる)は日本郵船の貨物船[9]T型貨物船(T型船)と呼ばれるものの一隻[10]

概要 敦賀丸, 基本情報 ...
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船歴

三菱合資会社長崎造船所で建造され[6]1915年大正4年)4月28日に起工[2][3][4]1916年(大正5年)3月8日に進水し[2][3][4]、同年6月15日[2][3][4]、または同年6月13日竣工[5]

竣工した「敦賀丸」はニューヨーク線、ハンブルク線、リバプール線などに配された[11]第一次世界大戦中には、地中海派遣艦隊への物資や兵員の輸送のため開設されたポートサイド航路に配されている[12]

1937年昭和12年)8月25日、「敦賀丸」は陸軍に徴用されるが[13]1938年(昭和13年)3月30日に一旦解傭[13]。解傭後はハンブルク線に配された[14]1940年(昭和15年)6月10日第二次世界大戦イタリアが参戦したことに伴い、日本郵船は近東伊太利線の休航を決定[15]。「敦賀丸」は同航路の最終船として同年6月20日横浜を出港し[16]8月9日アデンに到着[16]。翌10日にアデンを出港し[16]10月1日に横浜に到着した[16]

1941年(昭和16年)7月21日、「敦賀丸」は陸軍に再度徴傭される[17]1942年(昭和17年)1月、タラカン攻略に参加[17]。攻略部隊は1月7日ダバオを出撃し、10日から11日にかけて上陸が行われた[18]。続いてバリクパパン攻略に向かう[19]。攻略部隊は1月21日にタラカンを出撃し、23日に船団はバリクパパンの泊地に入った[20]。この時「敦賀丸」には坂口支隊の野砲兵大隊本部、野砲一中隊、高射砲大隊本部、同第二中隊主力、衛生隊主力などが乗船していた[21]1月24日0時35分、0時40分、もしくは0時45分頃、「敦賀丸」は被雷した[22]。これはオランダ潜水艦「K XVIII」の雷撃によるものであった[23]。「敦賀丸」は同日6時ごろに沈没した[5]。戦死者数について、『蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」(辰馬汽船、5,091トン)の合計で約30名[24]、『蘭印攻略作戦』には「敦賀丸」と「呉竹丸」が沈んだが、それによる坂口支隊の戦死者は39名であった[25]、とある。「敦賀丸」乗組員の戦死者は1名であった[26]。この後、バリクパパン攻略部隊はアメリカ海軍のクレムソン級駆逐艦4隻の襲撃を受けて輸送船3隻を撃沈されてしまう(バリクパパン沖海戦)。

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脚注

参考文献

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