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新聞統制
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新聞統制(しんぶんとうせい)は、新聞資本の統合(新聞統合)及び新聞の統制団体設置を目的として策定されたオペレーションを指す。内務省と情報局を中心として運用され、1938年より始まり1942年末に完成した。統合の結果、一つの県に一つの県紙が置かれた「一県一紙」は現在までほぼそのままで維持されている。
概要
言論統制は国による言論の自由抑制を指すが、そこには消極的統制と積極的統制が存在する。検閲は前者であり、新聞統合及び統制団体設置は後者に属する[1]。
現在、日本新聞協会加盟の新聞社90数社のほとんどは株式会社である。その新聞社の株主構成は戦前の新聞統制により確立したものがほとんどで、新聞統制と戦後の日刊新聞紙特別法により、新聞社の株式は社外保有が出来ない仕組みになっている[2]。
根拠となるのが国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる国家総動員法になる。こうした統制経済は、修正資本主義と言い換えられ、資本と経営の分離も含まれる。
戦時統制下では株主にある経営者の任命権を取り上げて、政府の管理下にある統制団体に任せることにより経営者の立場を強化しながら統制を強化する形で資本と経営の分離を実現できるか否かがポイントになる。
新聞統合においては、全国の新聞社の発行権、土地、建物、輪転機等の有体財産一切が新しく作る一元会社の株式として評価され、新聞社は一元会社より委託される形で新聞を発行するスキームで実現しようとしたが、新聞側から反対の声が挙がり頓挫した。
新聞統合の段階は以上の3段階に分けられる[3]。
- 1938年(昭和13年)秋から1940年(昭和15年)5月までの「悪徳不良紙の整理」
- 1940年(昭和15年)5月から1941年(昭和16年)9月までの「弱小紙整理」
- 1941年(昭和16年)9月から1942年(昭和17年)10月までの「一県一紙」主義の統合
整理とは懇諭、つまり心を込めて諭すことにより新聞が自発的廃刊の措置に出ることであり[4]、整理対象は悪徳不良紙から経営難に陥っている会社までを含む[4]。政府は警視庁及び地方庁警務課に内示して、徐々に弱小新聞の整理を行って整備に邁進した[5]。
1940年(昭和15年)5月、商工省から内閣に用紙管理委員会が移管された[6]。政府は経済面(営業面)から攻め[5]、弱小新聞の整理、強制的な合併を行った[5]。
政府の最高目標は一県一紙主義にあるが、それでも大新聞については手つかずであった[5]。これが第三段階に入ると、「新聞事業令」により、新聞事業の開始、経営、譲渡、合併などは全て内閣総理大臣の許可を必要とし、内閣総理大臣は会社の合併や事業の廃止などを命令出来るようになり、強制的に新聞社の合併、統合が進められた[7]。1942年(昭和17年)10月には739社あった日刊紙は54社を残してすべて消えた[7]。
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経緯
要約
視点
1941年(昭和16年)、新聞は資金、用紙や資材の調達も制約が加えられた[8]。新聞界では上からの統制が避けられないならば望ましい統制のためにと、新聞社と通信社が集まり1941年(昭和16年)5月、「日本新聞連盟」が創設された[9]。
当初は朝日、毎日、読売の全国紙を含む中央紙と地方紙のそれぞれが別々の団体を作ろうとする動きがあったが、情報局の指導と同盟通信社の説得により一つにまとまった[9][10]。全国紙は地方紙を盛んに買収し、とくに正力の読売は馬力が強く、全国全てを支配下に置こうとしたため、朝日、毎日も対抗した[10]。地方紙は生き残りのために、政府の統制により深く関わり、それにより全国紙を抑制しようとした[10]。
日本新聞連盟において、議決機関である理事会は中央紙及び通信社から6社、地方紙も6社が理事として、監事として中央、地方のそれぞれ1社から選ばれた[5][6][9]。
名前を挙げると、理事長が田中都吉、理事が緒方竹虎(朝日)、正力松太郎(読売)、田中都吉(中外商業新報)、三木武吉(報知)、古野伊之助(同盟)、高石真五郎(大毎。のち高石に代わり東日の山田潤二[11])。東季彦(北海タイムス)、一力次郎(河北)、森一兵(名古屋)、大島一郎(新愛知)、杉山栄(合同)、永江眞郷(福岡日日)。幹事は福田英助(都)、山本実一(中国)になった[6][9]。
建議の場が14社に限られた点には不満は無かったようである[9]。全国の発行数の八割が理事社にあり、また理事社の独断で進められる時勢では無かった[9]。資本の多寡に関わらず理事の1社は1票の議決権をもつ[10]。また主務大臣の推薦を受けた参与理事が情報局から2名、内務省警保局から1名、選ばれていた[6][9]。
1941年(昭和16年)9月17日、政府は日本新聞連盟の参与理事をして2つの審議事項を審議されたいと提案した[12]。そこに全国新聞統制会社の可否が含まれていた[12]。可否というが政府の真意は可であり、今ある新聞の資産を評価し、これを全国新聞統制会社が時価で購入。その支払いに新しい会社の株式を充てるというもので、株券の発行と手間で全国の新聞を手にしようという話である[12]。
これは日本発送電で政府がやった手口(原文ママ)で、松永安左衛門は「官僚は人間のクズ」だと罵った。この際に政府側にいた革新官僚の奥村喜和男が今回も案に関わっていた[12]。
理事社のうち地方紙は六社が賛成。中央紙も報知、国民は賛成。反対は朝日、毎日、読売、都の四社だった[12]。
約1ヶ月に渡り議論したが結論が出ず[12]、議論を打ち切り小委員会に具体案作成を委任することに決定した[6]。理事から選出された小委員会の委員は参与理事の3名、それと理事長(新聞社)と理事(通信社)であった[6]。同年11月5日、理事会に小委員会案が報告された[6]。小委員会案では全国共同会社(原文ママ)により全国の新聞を一元(一社)に統合するという案が出た[6]。
朝日、毎日、読売は反対。3社の案を提示したが、これに対し名古屋の森一兵ら地方新聞は小委員会案に賛成した。賛成派の報知の三木武吉を批判した毎日の山田潤二に三木が殴りかかろうとした。当初は毎日は国際派として名高い高石真五郎だったが、三木の暴論にウンザリして理事会に出ず山田に交代していた。大新聞の強硬な反対姿勢に奥村参与理事は憤激し、これに正力理事も反発と応酬した。11月中旬、朝日、毎日、読売は会合を開き小委員会案に反対すると決議した。言論界の長老である徳富蘇峰も民友社に代表の正力、緒方、山田を招き、3社の結束を訴え励ました。星ヶ岡茶寮に田中会長を招いた3社は資本統合だけは避けて貰いたい、それ以外は一任するとお願いした。11月24日、理事会会長の田中都吉は衆議統裁を一任され理事会に裁定案を提出。裁定案は3社の案に近い形で決着された。
このように正力の読売、それと緒方の朝日、山田の毎日の3社が反対して共同会社案は頓挫した。その代わりに新聞連盟の理事会が政府に答申したのは、新聞の統制は現在のままでは不可能であり、それには法令による統制機関を作って、そこに強力な権限を与えなければならないという内容になった(田中都吉の証言)[8]。同時に田中は新聞の個性を無くさず、創意工夫ができるように留意して貰いたいと政府に申し入れている[8]。
この答申を受け、政府は国家総動員法に基づき前述の「新聞事業令」を公布。全国の新聞104社を指定して「日本新聞会」という統制機関を作らせた。メディアからなる日本新聞会は新聞社の統合の整備計画を自ら立案した。
1942年(昭和17年)7月24日、日本の新聞は以下のように定められた。
- 東京は全国紙の3社、ブロック紙は1社、業界紙は1社。
- 大阪は全国紙の2社、ブロック紙は1社、業界紙は1社。
- 名古屋はブロック紙の2社をなるべく1社に統合する(朝日、毎日は発行を停止する)。
- 福岡はブロック紙の1社(朝日、毎日は北九州の発行を可とする)。
- その他の県は一県一紙。
- また新聞は個人企業を廃し、すべて法人とする。株主は役員又は従業員とし、社外株主は排除する(所有と経営の分離)[5]。
伊藤正徳の『新聞五十年史』は新聞事業令に続けて、新聞共同会社(仮称)案について以下のように書いている。
(中略)これを一挙に実現するためには時期が未だ熟しなかつたし、かつ新聞の実情は容易にこれを許さなかつたのである。而して右の申達内容(新聞事業令)は、実行可能なる最大限度であることは、引き続き日本新聞会設立に依つて業者の自ら体験したところである。結果から見るならば初めダイナマイトを示して心胆を奪い各理事をして自ら火薬を選ばしめた感はあるが(中略)[9]
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新聞統合の進捗
要約
視点
新聞統合における一県一紙は、正確には1つの県に新聞が1つあるという意味ではない。全国紙(中央紙)と地方紙は併存していたし、全国紙、地方紙以外の新聞も存在した。つまり日本新聞博物館(神奈川県横浜市)の歴史コーナーが説明しているように「日刊新聞社」が1937年(昭和12年)に1208社あったものが、1942年(昭和17年)には55社に統合されたという実相が新聞統合である。毎日刊行される日刊紙以外にも週刊紙、旬刊紙、不定期紙などの新聞は存在する。
- ★は読売新聞より買収、または資本提携をうけていた新聞
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戦争報道による影響
1930年、ロンドン軍縮条約締結。軍部を中心に反対の声が挙がるが、各紙は条約を支持。軍部批判もまだ活発に行われていた[13]。
しかし1931年、蒋介石の勢力拡大などにより、ナショナリズム世論が激化したことで、各紙は軍縮から軍拡へ路線を変更[注 33]。日清日露で得た満蒙権益の死守を訴えた[13]。9月18日、満州事変。12月19日、新聞各紙が連名で満州事変支持の共同宣言発表[13]。満州事変でスクープ合戦やナショナリズム世論が形成され新聞各社の売上が増加、各社は自発的に軍部を支持することにつながった[14]。
これらの経緯を経て、新聞社や日本放送協会の報道は制約されはじめる。従軍報道においても取材写真は幾つもの検閲を経て、何度もふるいにかけられてようやく紙面に掲載されることになった[要出典]。また、言論統制もあって、記事にも日本に有利な情報しか掲載されなくなり、事実に反する内容も少なくなかった[要出典]。そのため、複数の「真実」が存在する、曖昧な事件が幾つかあり、現在に至るまで議論がなされている[要出典]。
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全国新聞社一元化案の提示と頓挫
持ち分合同
太平洋戦争の激化に伴う空襲の危険増加や交通手段の悪化より、1945年に「戦局ニ対処スル新聞非常態勢ニ関スル暫定措置要綱」、いわゆる「持ち分合同」がなされる。これはいわゆる全国紙(中央紙ともいう)の主要な発行拠点である東京都、大阪府、福岡県とその周辺府県(概ね、埼玉県・千葉県・神奈川県・滋賀県・京都府・奈良県・兵庫県[注 34]・和歌山県・山口県)については従来通り全国紙と地方紙を単独発行することとし、それ以外は有力地方紙に全国紙(朝日・毎日・讀賣報知[注 35])の題字を一緒に載せて、地方紙と合わせた4紙連名という形で統合したものである。
新聞統制が遺したもの
要約
視点
従来は地方紙同士での競争もあったが、新聞統制後は全国紙と一県一紙の地方紙になったため、関東・関西以外の地方紙は、ほぼ独占的なシェアを誇ることとなった。そのため現在に至るまでこの枠組みが続いている[16]。
一方、新たな新聞社の設立が自由となって「福島民友」が復刊し、「栃木新聞」、「山梨時事新聞」、「北陸新聞」[注 36]、「日刊福井」、「奈良新聞」、「山口新聞」、「日刊新愛媛」、「フクニチ新聞」、「鹿児島新報」、「沖縄タイムス」のような第二県紙的な存在となる新聞も相次いで設立された。
大阪府においては特に、夕刊専売の地方紙(大阪新聞=産経新聞系、新大阪・日本投書新聞→新関西=毎日新聞系、関西新聞、大阪日日新聞=いずれも当時独立系)が乱立する状態[注 37]になっていた。
讀賣報知は、「読売新聞」との合弁を解消後、旧:「報知新聞」の社員有志により、夕刊紙・新報知として復刊するが、経営難が続き、1949年に再び読売新聞傘下になり、スポーツ紙(現在の「スポーツ報知」)にシフトすることになる。
また、地方紙でも都市部においては全国紙や有力ブロック紙に発行部数を食われる新聞社も少なくなく、「千葉新聞」、「和歌山新聞」、「滋賀日日新聞」、「防長新聞」は廃刊に追い込まれ、ブロック紙の中日新聞社は1960年に「北陸新聞」、1967年「東京新聞」、1992年に「日刊福井」の編集・発行権を譲り受けて発行エリアを拡大、「日刊福井」は「北陸中日新聞」(「北陸新聞」の後身)の福井版と統合した後、1994年に「日刊県民福井」と題号を改めた。
さらに戦後復発刊した第二県紙も多くは既存地方紙との競争に負け、「福島民友」、「奈良新聞」と「沖縄タイムス」以外は経営悪化に追い込まれている[注 38]。特に鳥取県の「日本海新聞」は、隣県・島根県の「山陰中央新報」(旧:「島根新聞」)が鳥取県の一部地域で発行されるようになって以後は、その「山陰中央」やブロック紙の「中国新聞」などのあおりを受けて、一度1975年に経営破たん(会社更生法申請)を引き起こしたため休刊に追い込まれたが、1976年に地元の実業家・吉岡利固(グッドヒル社主、新日本海新聞社社主)のグループが再建スポンサーとなって復刊した。
また戦後の民間放送開始によって、多くの地方紙はラジオ・テレビ放送局に出資することとなり、それがそのまま放送局においても当初は「1県1波」の原則で話が進むこととなる(マスメディア集中排除原則も参照)。UHF波解禁後のテレビ放送は、放送免許の大量交付に伴い、地方紙よりも全国紙・キー局との関連性が深い局が増加したが、AMラジオ放送に関してはほとんどの地方で一波体制であるため、地方紙とのかかわりが非常に深い状態が今も続いている。全国紙と関わりの深いラジオ局は主に地方紙が弱体化している県で、和歌山放送、山陰放送、山口放送くらいである(山陰放送は朝日系、和歌山放送は毎日系、山口放送は朝日系→読売系)。また、LuckyFMもかつては全国紙(「朝日新聞」)との関わりが深かった。なお、奈良県のように地方紙が弱体化している県で県域ラジオ放送がない事例もある[要出典]。
戦後の新たな新聞社の設立の自由化は、道県域の一部をエリアとした地域・ローカル新聞社の設立も促し、青森県の「デーリー東北」、「陸奥新報」のように第二、第三県紙的ポジションの新聞がある一方、「函館新聞」のように、地方紙との遺恨が長く生じ、新聞業界の閉鎖性と新規参入の困難さを物語る事案も起きている。
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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