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有末精三

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有末精三
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有末 精三(ありすえ せいぞう、1895年明治28年)5月22日[2][3] - 1992年平成4年)2月14日[2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

概要 有末 精三, 生誕 ...

経歴

北海道出身[2]。有末孫太郎(村長・京極農場支配人・屯田工兵大尉)の長男として生まれる[2]

上川中学仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1917年大正6年)5月陸軍士官学校29期[4])を優等(3番/536名)で卒業し、恩賜の銀時計を受けた[3][5][6]。同期には、河村参郎後藤光蔵稲田正純鎌田銓一額田坦小松光彦佐藤賢了寺田雅雄など昭和の陸軍を牽引した将軍を多く輩出している。旭川に衛戍する歩兵第25連隊附としてシベリアへ出征する。

1924年(大正13年)11月陸軍大学校36期)も優等で卒業し、恩賜の軍刀を受けた[3][7][8]

1931年昭和6年)には、歩兵第5連隊大隊長歩兵少佐)を最年少で勤めている。この時、同僚の大隊長として7期先輩にあたる相沢三郎歩兵少佐(陸士22期)と知り合う。

1932年(昭和7年)、荒木貞夫中将陸士9期)が陸軍大臣に就任すると、その陸軍省副官陸相秘書官に就任する。以降、林銑十郎陸相(陸士8期)と二代にわたり秘書官を務めた。

1935年(昭和10年)8月、陸軍省軍務局勤務となった有末は、相沢三郎歩兵中佐が陸軍省軍務局長永田鉄山少将陸士16期首席)を白昼に惨殺する(相沢事件)に遭遇する。

二・二六事件以後の軍内部でのいわば下克上の風潮が強まる中、陸軍省軍務課長時代に、阿部内閣の実質的成立者であったといわれる[9]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[10]。旧軍情報関係者による「有末機関」を組織し、GHQとの戦後処理交渉に当たった[11]帝銀事件にも関与したといわれる[12]

戦後は、ソ連中国の動向を注視していた占領軍の諜報部参謀第2部(G2)との関係を急速に深め、有末の働きかけにより、大本営参謀たちは諜報部に次々とスカウトされていった。彼らは諜報部の意向を受けてソ連や中国などへのスパイ活動に従事し、戦犯となることを回避した[13]

1992年2月14日、心不全のため東京都杉並区の病院で死去した。96歳没[11]

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年譜

※出典:『日本陸海軍総合事典』第2版、10頁。

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栄典

勲章
外国勲章佩用允許

著作

  • 『有末精三回顧録』芙蓉書房、1974年。
  • 『政治と軍事と人事 - 参謀本部第二部長の手記』芙蓉書房、1982年。
  • 『ザ・進駐軍 - 有末機関長の手記』芙蓉書房、1984年。
  • 『終戦秘史 有末機関長の手記』芙蓉書房出版、1987年。ISBN 4829500093

親族

脚注

参考文献

外部リンク

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