木下俊敦
ウィキペディアから
木下 俊敦(きのした としあつ)は、豊後国日出藩13代藩主。位階は正五位。官位は従五位下、大和守、左衛門佐。幼名は銀之助、通称は主計。
![]() |
経歴
文化12年(1815年)12月9日、先代藩主で兄の俊良の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。この頃になると藩財政が窮乏化していたため、天保3年(1832年)から帆足万里を登用して藩政改革を行なったが失敗し、天保6年(1835年)から関勝之を登用して藩政改革を行なった。弘化4年(1847年)8月16日、病気を理由に次男の俊方に家督を譲って隠居した。
以後、廃藩まで3代続いた藩主はいずれも俊敦の子であるが、その全ての死後も俊敦は存命であり、明治3年(1870年)7月18日に明治天皇に拝謁し、明治19年(1886年)10月12日卒去。行年85歳。法号は秀真豊臣俊敦命。墓所は青山霊園1-イ-2-25。
系譜
父母
正室、継室
側室
- 美佐
- 河瀬氏
子女
脚注
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.