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林頼三郎

日本の刑法学者 ウィキペディアから

林頼三郎
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林 頼三郎(はやし らいざぶろう、1878年明治11年)9月6日 - 1958年昭和33年)5月7日[1])は、日本刑法学者検事総長大審院院長・司法大臣を歴任した。旧姓・三輪[2]。現在の埼玉県行田市出身。

概要 林頼三郎, 生年月日 ...
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生涯

三輪礼三の四男として生まれた[2]。父は忍藩御典医だったが、製粉業に失敗し、貧しい生活を強いられた。忍高等小学校在学中、父が病気となり、途中、北埼玉郡役所給仕となる。家計を助ける傍ら、出勤前早朝に恩師の自宅で英語を学ぶ努力家であり、16歳のときにその人物を見込まれ、政治家で北埼玉郡長林有章の養子となる[3]。同年、弁護士書生をしながら、東京法学院中央大学の前身)に進学、法学博士学位を得、法曹界に重きをなした。

検事となり「思想検事」系列に連なる。法曹会の会員で[4]1919年大正8年)末、三・一独立運動に関する平沼騏一郎検事総長宛の視察調査報告では、「思想犯の社会からの隔離」を提言。これは後の1941年昭和16年)の新治安維持法において、行刑や思想犯保護観察法も絡め、予防拘禁として盛り込まれた[5]。また司法次官時代には、小山松吉検事総長らと、実際の治安維持法が初めて適用された京都学連事件にも関わった[6]

一方、母校の中央大学、横浜専門学校(現在の神奈川大学)などで教育振興にも尽力し、故郷の行田市水城公園には顕彰碑が建立されている。ちなみに、中央大学法学部出身の俳優丹波哲郎は親戚にあたり、丹波自身、「仙台二校を3度受けても入らない。中央大学に入ったのも、総長の林頼三郎が親戚だったので、入れていただいた」と後年語っている[7]

1958年(昭和33年)には行田市の初代名誉市民に推挙された[8]。同年5月7日に死去。死去に当たり勅使が派遣され、祭粢料を賜った[9]

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略歴

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中央大学総長時代(1955年)
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栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許
称号
  • 1958年(昭和33年)5月3日 - 埼玉県行田市から名誉市民称号が贈られる[8]

著書

  • 『刑事訴訟法要義 総則 上下巻』中央大学、1924年。
  • 述『刑法総論』矢田長次郎、1924年。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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