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柳田利夫
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柳田 利夫(やなぎだ としお、1936年8月18日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。
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経歴
内郷高校(現:いわき総合高校)から常磐炭鉱を経て、1958年に大毎オリオンズに入団。
1959年には一軍に定着、二塁手として14試合に先発出場した。
1960年は開幕直後に遊撃手の八田正が故障欠場、新監督の西本幸雄に抜擢され、一番打者、遊撃手として起用される。この年の5月下旬に打撃練習をしようとグラウンドを通っていると、気づかぬまま素振りを続けていた榎本喜八のバットが柳田の顎を直撃。柳田はその場に流血しながら倒れこみ、その姿を見た榎本は自身の責任を感じ試合数分前まで顔面蒼白だったという。しかし6月下旬には復活し、7月からは二塁手も兼ねる。同年は大毎ミサイル打線のチャンスメーカーとして活躍、初の規定打席に達し打率.249(リーグ26位)を記録して、10年振り2回目のリーグ優勝に貢献した。大洋ホエールズとの日本シリーズでは11打数2安打2打点にとどまるが、第3戦で鈴木隆から2点本塁打を放った。その後も二塁・三塁・遊撃を守れるユーティリティプレイヤーとして常時出場。
1962年には打率.268、13本塁打、48打点を記録した。
1963年に堀本律雄との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。トレードに出されるなら野球を辞めて故郷に戻ろうと決心するが、山内一弘から激励を受けて思いとどまったという[1]。巨人では主に外野手として起用され、その年の西鉄との日本シリーズ第7戦では稲尾和久から先頭打者本塁打を打ち、チームの日本一に貢献。翌年以降も外野手の準レギュラーとして起用されるが、毎年打率は2割前後と打撃面では低迷が続いた。
1967年に巨人は西鉄から高倉照幸、広島から森永勝也を補強して外野手に余裕ができたことから、柳田はシーズン途中に南海ホークスに移籍となる[2]。
1968年には五番打者に定着し、131試合に出場。打率.275(リーグ11位)、15本塁打、68打点のキャリアハイを記録、同年のオールスターゲームにも選ばれた。また強肩を活かし11補殺と守備面でも大きく貢献している。
1970年限りで現役引退。引退後は横浜市在住。
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詳細情報
年度別打撃成績
記録
- 節目の記録
- 1000試合出場:1970年5月31日 ※史上146人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1968年)
背番号
- 56 (1958年 - 1959年)
- 4 (1960年 - 1962年)
- 5 (1963年 - 1967年途中)
- 51 (1967年途中 - 1968年途中)
- 8 (1968年途中 - 1970年)
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参考文献
- 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年
脚注
関連項目
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