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根本幽峨

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根本 幽峨(ねもと ゆうが、文政7年(1824年) - 慶応3年8月6日1867年9月3日[1])は、江戸時代後期の絵師

伝記

因幡国鳥取城下町の商家・砂田屋の長子として生まれる[2]。幼名は重三郎。別号に鷲峯があり、これは因幡八景の「鷲峯暮雪」に数えられる鷲峰山から取られたと考えられる[3]。幼少の頃から絵を好み、凧、幟などに武者絵を描き、それを売ったりもした[2]。やがて江戸に出て、鳥取藩絵師・沖一峨に師事する。弘化4年(1848年)に姓を砂田から根本に改姓し、絵の心がけが良く御用にも役立っているとして、毎年銀5枚遣わされる[4]嘉永5年(1851年)師と共に八重洲本邸の杉戸絵や屏風などの制作に関わり、同年12月藩に対する貢献が認められ、4人扶持を得る。嘉永7年(1854年)3月、画道修行の年限がきたの国元に帰る。この時、名画の模写が数櫃にもなった[2]といい、現在、京都国立博物館東京国立博物館に幽峨の模本・模写が数多く残っている[5]

国元に帰ったからも藩の仕事を続け、安政5年(1858年)正式に御用絵師に取り立てられ(席次は大岸淵虬の下)[4]、翌年から毎年銀7枚支給される[4]元治元年(1864年)、沖九皐(守固)の弟剛介が「堀庄次郎暗殺事件」を起こしたため、沖家は一時断絶となり、幽峨は師弟関係から沖探三を預かり[4]、慶応2年12月に御預を許されて家名を再興されるまで、沖家の世話をした[4]。慶応元年(1865年)には毎年銀14枚に加増されるも[4]、自身の寿命がわかっていたのか、慶応3年(1867年)没年に弟で門人でもある根本雪峨を養子にした後、44歳で死去[4]。墓は鳥取市慶安寺にある。弟子に長塩雪塘など。

幽峨は江戸での修行が終わるとすぐに帰郷したため、地元での活躍が目立ち、郷土にある渡辺美術館に70点ほど作品が所蔵されている。作品は御用絵師らしく狩野派風がものが多いが、ついで大和絵的主題や、真景図などの文人画様式、浮世絵美人画など多様な作品を描いている。

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代表作

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脚注

参考資料

関連項目

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