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桃井氏

日本の氏族 ウィキペディアから

桃井氏
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桃井氏(もものいし/もものいうじ)は、日本の氏族。清和源氏足利氏の支族で、足利義兼の子である兵部少輔桃井義助嘉元元年(1225年)に上野国群馬郡桃井郷(現・群馬県北群馬郡榛東村、旧名・桃井村)の荘司(地頭補任は不詳)となり、子の桃井義胤が当地を苗字の地として桃井氏を称した[1][2][3]。 

概要 桃井氏, 本姓 ...
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二つの桃井氏

平安時代後期、上野国群馬郡桃井郷(現・群馬県榛東村)を在地領主化した物射系桃井氏(物部氏)が支配したが、鎌倉時代初期、和田合戦承久の乱で没落し、足利氏系の桃井氏が中期以降、桃井郷を中心に勢力を伸ばした。この桃井氏は、当村東部の山子田御掘の居館に至って地内を流れる午王頭川水系を掌握する一方、山野と耕地との境界に長大なシシドテを築いて勧農に努めた。

経歴

祖は足利氏 3代当主・足利義氏の孫である桃井義胤桃井義助の子)で、上野国群馬郡桃井郷を領して「桃井氏」を称したのが始まり。

概要

桃井氏は足利庶家であり[4]、鎌倉時代には御家人として桃井庄に住し、義助の曾孫の代に至り、三郎桃井胤氏系(子孫は桃井尚義)、小二郎桃井頼直系(子孫は桃井直常桃井直信兄弟)の2系統に分かれた[1][2]

鎌倉時代末期

鎌倉時代末の動乱では六波羅探題攻めの足利尊氏軍に桃井直常・桃井直信兄弟、鎌倉攻めの新田義貞軍に桃井尚義が属して行動をともにしたのが、一族では最も著名である。こうして鎌倉幕府滅亡に貢献した。

南北朝動乱期

南北朝時代には一族は南朝方・北朝方に分かれて戦った。正慶2年(1333年)には、桃井一族は新田義貞の鎌倉攻略戦に従軍したが、建武の新政崩壊後、武家方と宮方双方に分裂して南北朝動乱期を迎えた。特に武家方の桃井直常、直信兄弟は驍将として名を馳せている。越中国守護ともなった直常だったが、観応の擾乱時から足利直義直冬勢の有力武将として常に尊氏に敵対していたため、直義敗北後は北朝・幕府に抵抗を続けつつも次第に衰退していった[1]

室町時代

南北朝時代から室町時代にかけて諸国に分かれた桃井氏があった。本拠地である上野国や所領のあった越前国武蔵国越中国信濃国越後国美濃国隠岐国紀伊国などに広がった。

福井県幸若氏橋本氏蜂屋氏。群馬県榛東村の源姓湯浅氏前橋市阿久沢氏奥沢氏埼玉県戸田市金子氏篠氏幸手市巻島氏という。

能登国守護畠山氏家臣の温井氏は、桃井直信の嫡男景信が(藤原姓)温井景直に迎えられ桃井氏から姓を改めたもの、という。

室町時代、幸若舞を創始した幸若氏の祖となった桃井直詮は直常の孫に当たるという。幕末に活躍した橋本左内を輩出した橋本氏桃井直常の末裔と称した。

桃井直和の孫にあたる日隆戦国時代織田信長が自刃した本能寺の変で有名な本能寺開山である。

室町幕府奉公衆である番衆の二番衆番頭は、桃井直信の子・詮信の子である常欽(じょうきん)以降、代々桃井氏が務めていた[5]。しかし、大永2年(1522年)に細川家で行われた犬追物に出仕した記録を最後に二番衆番頭桃井氏は見られなくなった[6]

足利義昭の側近として知られる真木島昭光は桃井氏の末裔と称している[7]

戦国時代の武将で越後上杉氏家臣の桃井義孝も直詮の末裔と見られる。

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江戸時代以降

徳島藩領の阿波国で暮らしていた平島公方第9代の足利義根が、文化2年(1805年)に阿波国を退去して京都に移った際、その家臣として桃井小十郎、桃井兵庫、桃井亘、桃井文司、桃井小太郎とその家族が同行している[8]

思想家の桃井可堂(はじめは福本姓)、剣術家の桃井春蔵秋山多吉郎がいる。また、富山大学教授倫理学が専門の杉本新平も桃井直常の末裔とされる[9]

系図

足利義兼2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[畠山氏初代]
畠山太郎義純
[桃井氏初代]
桃井次郎義助
足利三郎義氏3
 
 
 
 
義胤(足利四郎)
 
 
 
 
頼氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
[三郎系初代]
胤氏
[小二郎系初代]
頼直
 
 
 
 
 
 
[数代略][数代略]
 
 
 
 
 
 
尚義貞頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直常直信
 
 
 
 
直和
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脚注

参考文献

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