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櫻井天壇
日本のドイツ文学者、文芸評論家 ウィキペディアから
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櫻井 天壇(さくらい てんだん、1879年〈明治12年〉10月18日 - 1933年〈昭和8年〉9月10日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。第八高等学校第二語学科主任教授。会津八一の先輩で義弟。本名は櫻井 政隆(さくらい まさたか)。
略歴
新潟県南蒲原郡中野原新田村[注 1](現 三条市中野原)出身[注 2][注 3]。1893年(明治26年)4月に新潟県尋常中学校に入学、「九泉童子」と号し、文芸雑誌『文庫』に投稿[1][2]。
1898年(明治31年)3月に新潟県尋常中学校を卒業、1901年(明治34年)7月に第一高等学校を卒業、9月に東京帝国大学文科大学独逸文学科に入学、カール・フローレンツに師事。
1903年(明治36年)6月から「天壇」と号し[注 4]、『帝國文學』[注 5]に評論を発表[3][5][6][7][8][9][10][11]、1904年(明治37年)7月に東京帝国大学文科大学を最優等で卒業、恩賜の銀時計を下賜された[5][6][7][8][9][12]。
1904年(明治37年)9月に東京帝国大学文科大学大学院に入学、引き続きカール・フローレンツに師事、10月に依頼により学習院講師に就任、1905年(明治38年)4月に『帝國文學』の編集委員に就任[注 6]。
1906年(明治39年)4月に学習院教授に就任、1907年(明治40年)1月に新潟県尋常中学校の2年後輩の会津八一の妹の庸(たか)と結婚[5][6][7][9][10][14][15][16][注 7]、1909年(明治42年)7月に第八高等学校教授に就任[注 8]。
1912年(大正元年)10月にドイツ語とドイツ文学の研究のため、2年間の留学を命じられ、1913年(大正2年)1月から1914年(大正3年)10月まで文部省留学生としてドイツのベルリン大学に留学[11][13][15][18][19][注 9][注 10]。
1924年(大正13年)5月に学生のドイツ語の学習のため、ゲーテの『ファウスト』の翻訳に着手したが、1925年(大正14年)1月に出勤の途中に脳溢血を起こし[注 11]、入院、3月に退院、5月に翻訳を再開、7月に完成、9月に出版[20][21]。
1933年(昭和8年)9月10日午前7時15分に愛知県名古屋市南区熱田東町字玉ノ井(現 熱田区玉の井町)の自宅で脳溢血に肺炎を併発して死去、53歳没。新潟県五泉市村松甲の英林寺の先祖代々の墓に眠る。戒名は竜登院殿天壇文達居士[22]。
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業績
人物
栄典
友人
親族
主な教え子
著作物
主な評論
- 「現實癖の文藝」『帝國文學』1903年6月。
- 「詩人蒲原有明を論ず」『帝國文學』1904年3月。
- 「詩人リヽエンクロオン」『帝國文學』1904年6月。
- 「戱曲『フアウスト』の評論に就て」『帝國文學』1904年10月。
- 「比較硏究の精神」『帝國文學』1905年1月。
- 「詩人としてのシルレル」『帝國文學』1905年5月。
- 「有明の詩論」『帝國文學』1905年7月。
- 「𧰼徵詩を論じて有明の春鳥集に及ぶ」『帝國文學』1905年8月。
- 「ミュンヘン詩派の詩歌」『帝國文學』1907年7月。
- 「獨逸自然派諸家の戱曲」『早稻田文學』1907年7月。
- 「最近獨逸の鄕土文學」『早稻田文學』1908年3月。
- 「獨逸の抒情詩に於ける印象的自然主義」『早稻田文學』1908年6月。
- 「ハウプトマン作『日出前』」『早稻田文學』1909年1月。
- 「詩人デエメル及其前後」『早稻田文學』1909年5月。
- 「ホオフマンスタアル論」『早稻田文學』1910年12月。
- 「ズーダーマン雜感」『早稻田文學』1912年5月。
- 「獨逸の群衆劇術に就いて」『早稻田文學』1915年7月。
遺稿
訳書
- 『ファウスト』ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ[著]、大村書店〈ゲーテ全集 第3巻〉、1925年。
- 『レーナウ詩集』ニコラウス・レーナウ[著]、岩波書店〈独逸文学叢書 第11編〉、1927年。
- 『ヴィルヘルム・テル』フリードリヒ・フォン・シラー[著]、岩波書店〈岩波文庫 444-445〉、1929年。
- 『ヴィルヘルム・テル』フリードリヒ・フォン・シラー[著]、岩波書店〈岩波文庫 444-445〉、1948年。
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脚注
参考文献
関連文献
外部リンク
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