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森本学

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森本学
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森本 学(もりもと さとる、1978年1月6日 - )は、大阪府大阪市鶴見区出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

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経歴

要約
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プロ入り前

甲子園にも出場した兄の影響で小学3年より軟式野球を始める[1]大阪桐蔭高3年生の夏には、三木肇のいる上宮高に敗れた。高校時代、投手以外のポジションは全て経験したという。

福井工大時代は2年生からレギュラーを獲得し、3年生時には全日本大学野球選手権大会に出場するも、相川良太のいる東海大に敗れている。4年春秋ベストナイン(遊撃手)、秋は首位打者[2]

大学卒業後、シダックスに入社。1年目にはレギュラーになれなかったが、2年目からはベストナイン遊撃手の突然の引退によりショートのポジションを獲得。3年目には補強選手として第73回都市対抗野球大会に出場し、ベスト4入りしている。2002年度ドラフト会議で、福岡ダイエーホークスから6巡目指名を受けた[1]

プロ入り後

1年目の2003年に故障し、ルーキーイヤーはリハビリで過ごした。その後も怪我などもあってなかなか一軍出場ができなかった。しかし、3年目の2005年に一軍初出場を果たすと[1]、プロ初安打・初打点も記録。

2006年には自己最多の出場機会を得て、川﨑宗則の代役スタメンや守備固め本多雄一二塁手定着後は三塁の守備固めなどで起用され、初めて一年を通して一軍に定着した。二塁手55試合、三塁手20試合、遊撃手12試合とさまざまなポジションを守り、チームでただ一人年間無失策を成し遂げた。

2007年、4月に川﨑宗則の怪我で出場機会をつかみ、遊撃手などで出場した。川崎の怪我が完治してからは二軍へ落ち、二軍でも打率1割台と不調で、その後は一軍にほとんど上がれなかった。

2008年は前年より出場機会が増えて54試合に出場。

2009年は開幕戦で松田宣浩の骨折で途中出場。その後も勝負強い打撃を買われスタメンに定着した。松田の復帰後は年間を通じて内野手のバックアップ要員に定着。不調が続いた川崎、本多の代役としてスタメン出場することもあった。松田の二度の長期離脱で空いた三塁を71試合守ったのをはじめとして、一塁手9試合、二塁手10試合、遊撃手も1試合務めて内野の全ポジションで出場した。明るい性格でファンも多く獲得し、ムードメーカーの役割も担った。

2010年6月29日の対千葉ロッテマリーンズ戦にて、プロ入り8年目にして初本塁打を打つ。この試合は4安打5打点と活躍した。シーズン全体では打撃成績を落とし、出場試合数も少し減らしたが、一塁手を32試合、三塁手を27試合、二塁手も1試合こなして内野陣をバックアップした。

2011年は若手の明石健志の台頭などで出場機会が減り、10月1日、現役引退の意志を固めたと報じられた[3]。同月14日、正式に任意引退公示された[4]

現役引退後

介護事業を手がけていた高校時代の同級生の影響もあり、引退の翌年2012年2月に地元大阪市へ戻り、介護福祉を行う株式会社フォレストブックを設立、デイサービス施設などを経営している[5][6][1]2017年に現役時代を過ごした福岡に老人ホームをオープンした[5]

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選手としての特徴・人物

勝負強い打撃と内野全ポジションを器用にこなすユーティリティー性が武器[5]

明るく気さくな人柄の持ち主[6]。ソフトバンク時代はチームのイジり役であると同時にイジられ役でもあり、貴重なムードメーカーとして年齢問わずに愛され、ファンからの人気も高かった[6]

名前の読みを「マナブ」と間違われることが多く、後輩選手から「マナブさん!」と呼ばれると、「マナブちゃうで、サトルや!」と返すのが恒例となっている[6]

詳細情報

年度別打撃成績

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年度別守備成績

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記録

背番号

  • 29 (2003年 - 2004年)
  • 32 (2005年 - 2011年)

脚注

関連項目

外部リンク

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