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森澤清
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森澤 清(もりさわ きよし、1901年(明治34年)8月11日[1] - 1992年(平成4年)8月3日[1])は、日本の放送人、実業家である。朝日新聞社に勤めたのち、東京放送テレビ(通称:TBSテレビ)常務取締役や子会社のラジオ東京サービス社長を務める[1]。中央放送広告社長も務めた。岡山県高梁市出身[2]。姓は常用漢字体で「森沢」とも表記される[1]。
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経歴
要約
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生い立ち
1901年(明治34年)岡山県上房郡豊野村(現:高梁市)の父・森澤清六と母・ひさの七男として出生する[2][3](出生地は東京、誕生後すぐに地元へ帰省)[4]。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て[5]、1920年(大正9年)に旧制第六高等学校文科甲類へ進学する[5][6]。
その後、1922年(大正12年)3月、同校を卒業し[7]、京都帝国大学法学部へ進学する[8]。京大では、陸上競技部に所属していた。後には、同大学蒼穹会副会長も務めている[6]。1926年(大正15年)3月、24歳のとき同大学の法律学科を卒業した[9]。
朝日新聞時代
京大卒業後、朝日新聞社へ入社する[10]。入社後、一貫して広告畑を歩み、大阪朝日新聞の広告部を経て、1941年(昭和16年)39歳のときに、東京朝日新聞広告部の次長となる[11][12]。第二次世界大戦後、森澤は、日本新聞協会の広告専門部会委員長となり、1947年(昭和22年)12月、部会が開かれる度に議題として挙っていた、新聞広告の倫理化について、新聞各社の取りまとめを行い方針を制定している[13]。
1948年(昭和23年)46歳のとき、朝日新聞大阪支社の広告部長・厚生部長となる[14]。その後、朝日放送設立準備委員を経て[15]、1951年12月24日にラジオ東京(後の東京放送の母体)が開局し、森澤は朝日新聞での広告部長としての腕を買われ、50歳でラジオ東京の大阪支社長代理となる[16]。また、この時の同社編集局長(次期有力取締役ポスト)には、旧制中学の後輩である金澤覚太郎がおり、金澤は森澤より5歳年下であったが、役職は金澤の方が上であり、同社の設立の主体となっていた[16]。
東京放送時代
1954年(昭和29年)には、業務局次長から業務局長となり[17][18]、1955年(昭和30年)には、東京放送(現:TBSホールディングス)の設立に伴い、放送部会理事を務める[19]。1556年(昭和31年)には、同社の大阪支社長・業務局長となる[20]。この時すでに、森澤は東京放送の首脳陣となっていたが、同社では、バランスを取るために、専務に鹿倉吉次(毎日新聞系)、編成局長・今道潤三(前大阪商船下関支店長)、総務局長・森本太真夫(毎日新聞系)、調査局長・鈴木恒治(読売新聞系)、業務局長・森澤清(朝日新聞系)というように、毎日・読売・朝日の三社の人材がそれぞれの重要ポストに就任している[21]。
1957年(昭和32年)56歳のときに、同社取締役・業務局長へ就任する[22]。この後、取締役総務局長を経て[23]、1960年(昭和35年)59歳のときに常務取締役・総務局長となり[24]、大阪支社長・テレビ編成局長、子会社のラジオ東京サービス社長も兼務した[25][26]。1964年(昭和39年)同社常務や子会社社長職を退任する。その後、中央放送広告の社長に就任する[27][28][29]。1974年(昭和49年)73歳のとき、同社の社長を退任し、相談役となる[30][31]。
1992年(平成4年)8月3日、90歳で死去[32]。
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家族
- 父親:清六(1848 - 不明)森澤清七の三男 、第八十六国立銀行(現:中国銀行)監査役[2]
- 母親:ひさ(1859 - 不明)岡山県出身・森房吉の妹[2]
- 兄:保一郎(長男:不明 - 1888)若年で死去[2]
- 兄:慶二郎(養子:1883 - 不明)保一郎の早逝により、吉野宗七の次男を養子とする、酒造業を営む[2][33]
- 兄:方三郎(三男:1888 - 不明)岡山県上房郡豊野村・稔郵便局長[2][33]
- 兄:海四郎(四男:1891 - 1922)海軍経理学校卒、大日本帝国海軍・主計大尉[2][34]
- 兄:磊五郎(五男:1893 - 1984)東亜同文書院大学教授、順正短期大学学長[35]
- 弟:員尾(八男:1904 - 1968)大阪市にある稔屋商事(後にグルメシティ近畿に買収)社長[2][36][37]
脚注
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