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横山忠夫

日本のプロ野球選手 (1950-) ウィキペディアから

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横山 忠夫(よこやま ただお、1950年1月4日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手投手)。

概要 基本情報, 国籍 ...

来歴・人物

網走南ヶ丘高校では、エースとして1966年秋季北海道大会決勝に進出。札幌光星高に敗れ準優勝にとどまる。翌1967年夏の甲子園にチーム初出場。1回戦で大分商河原明と投げ合うが、12安打を喫し0-8で大敗[1]。同年秋、サンケイアトムズからドラフト6位で指名されるも入団を拒否し、翌年立教大学に進学した。

同大学の硬式野球部ではエースとして活躍。東京六大学野球リーグでは優勝に届かず、1971年秋季リーグの3位が最高であった。1970年秋季リーグの東大との2回戦で、ノーヒット・ノーランを達成している[2]。リーグ通算57試合に登板、16勝26敗、防御率2.91、168奪三振を記録した。1学年上のチームメートに外野手望月充がいた。

右の本格派として期待され、1971年秋のドラフト1位指名で読売ジャイアンツに入団。川上哲治監督の期待が大きく、1年目から先発として起用されるが1勝3敗に終わる。1974年10月14日に行われた立大、巨人を通じての先輩である長嶋茂雄の現役最終試合(後楽園球場、対中日ドラゴンズダブルヘッダー第2試合)では、試合の最後を締める登板を果たす。長嶋が監督に就任した1975年には、5月から先発として起用され、6月以降は4連勝を飾る。7月11日には阪神タイガース上田二朗と投げ合い初完封を記録した。同年はシーズン8勝を挙げ堀内恒夫に次ぐ2番手投手に躍り出る。しかしチームは球団史上初の最下位に終わった。当時の投手陣10名は毎年、集まって会(サイカイ)を開いている。

1976年も開幕直後から先発として起用されるが成績は低迷、6月には先発を外れる。1977年は一度も一軍に上がる事ができなかった。同年オフ、巨人から戦力外通告を受けロッテオリオンズへ移籍。しかし翌1978年は僅か5試合の登板に留まり、シーズン終了後に引退した。オーバースローからシュート、カーブ、フォークを武器とした。

引退後は、堀内恒夫の紹介で「銀座木屋」うどん店で3年間修行し[3]、母校である立教大学池袋キャンパスの近くで「立山」といううどん店を独立開業して、現在に至る(店名の由来は自身の姓の捩り。本人曰く「“横”は商売上縁起が悪い文字だから」)[4][5]

その後は立教大学野球部OB会長も務めた。作家の伊集院静(西山忠来)とは野球部の同期であり友人同士で、2023年に伊集院が死去するまで親交があった。

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詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...

背番号

  • 15 (1972年 - 1977年)
  • 28 (1978年)
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関連情報

関連書籍

脚注

関連項目

外部リンク

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