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横浜銀蝿
日本のロックバンド (1980-) ウィキペディアから
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THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL(ザ・クレイジー・ライダー よこはまぎんばえ ローリング・スペシャル)、は日本のロックンロールバンド。本来はこれが正式名称だが[4]、メディアでは横浜銀蝿と省略されて呼称されている。
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概要
ポンパドールの髪形にサングラス、ライダー革ジャン、白いドカン(ズボン)という独特の服装で登場。「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り1980年代前半に一気に若者の人気を獲得した。その独特な存在からデビュー以来、幅広いミュージシャン、バンドに影響を与えている。
「銀蝿一家」として弟分グループなども展開し、1983年の大晦日に「解散」したが1998年に活動再開し2020年現在も活動を続ける。楽曲としては、4人で演奏するシンプルなロックンロール、バラードなどから、笑いを誘うコミックソングまで幅広いものがある。
メンバー
- 楽曲の多くに作詞・作曲で名を記す。ヴォーカリストでありサイド・ギタリスト。血液型B型。
- 血液型はO型。グループ所属中もソロでレコードリリースなどの活動をしていた。メンバーの中で一番人気があり、バレンタインデーにはトラック何台分もの大量のチョコレートが贈られ、本人はその事が不思議だったらしく、大量のチョコレートを見て「この国はどうなってるんだ?」と思ったと言う。解散後もソロ活動を継続した後、1988年にキングレコードに就職。中山美穂、的場浩司らをディレクターとして手掛け、2002年からは「ベルウッド・レコード」プロデューサー。1998年の再結成時には、復活第一弾アルバム『ぶっちぎりVII』のレコーディング及びCD・ライヴパンフレット用の写真撮影のみに参加し、ライヴは本業が多忙なために不参加、以降は横浜銀蝿関係の活動には参加しなかったが、2019年の「40th」でメンバーとして復帰。2007年1月まで、インディーズバンドを支援する「YOKOHAMA FACTORY」[5]を展開した。2013年7月、キングレコード上席執行役員と兼務で関連会社のベルウッド・レコードの代表取締役社長に就任した。2020年からはベルウッド・レコードがグループ活動のマネジメントを行っている。
- 中央大学杉並高等学校卒業[6]。 血液型B型。作詞作曲編曲家として銀蝿一家の作品の他、中森明菜、三原順子をはじめ岩井小百合・おニャン子クラブ等のアイドルの作品も手がける。特に三原はTAKUの楽曲でオリコンベスト10入りをはたし第33回NHK紅白歌合戦(1982年)に出場、岩井は第14回日本歌謡大賞(1983年)の最優秀新人賞を受賞した。また、1990年に(株)日音に入社。原盤ディレクターとして、槇原敬之、島田歌穂、本田美奈子等を担当。日音制作部“秋葉プロジェクト”チーフプロデューサーとして最盛期にはオリコンチャートベスト20以内に同時に3曲を送り込んだ。銀蝿復活後2007年以降よりプロデューサー兼ベーシストとして、BRAIN WASH BAND、チェリーボーイズ等の昭和のロックンロールバンドを復活させている。
- 最年長者である同バンドのリーダーで、ボーカル&ギター、翔の実兄。高校時代、生徒達を縛りつけていた校則を変えるために生徒会長選挙に立候補し、生徒会長に当選して校則を変えた革命児。自ら横浜銀蠅を結成し、キャンディーズのランこと伊藤蘭のファンだったためこれをもじって「嵐」と名乗った。バンドのメンバーの中でただ一人だけ「リーダー・キャップ」をかぶっているため髪型をリーゼントにしておらず、それがあだとなって、無知な世間一般から「帽子をかぶってるドラマー」としてなめられがちであった。嵐を筆頭に横浜銀蠅のメンバーは全員、プライベートでも同じツッパリ・スタイル(ファッション)でとおした。(極端に言えば、電車に乗るときもライブをしているときと同じいでたちである)。横浜銀蠅ブームをつくった同バンドの代表曲『ツッパリ・ハイスクール・ロックンロール,登校編』等の作者でもあった同バンドの大黒柱。2001年の第19回参議院議員通常選挙に自由連合公認で比例代表区から立候補したが惜しくも落選した。2004年に脳梗塞となって開頭手術を受け体に後遺症が残った。以後、闘病的なリハビリ生活を送る。2006年6月9日の結成25周年記念コンサートに体の不自由をおして参加しデビュー曲『横須賀Baby』を演奏。その後もドラムをサポートメンバーに委ねながらもコーラスやボーカルでライブに参加した。体に障害を抱えながらも生涯現役を貫き、2022年7月4日、肺炎のため67歳で亡くなった[7]。
サポートメンバー
- Jack(ジャック) - ギター
- Atsushi(アツシ) - ドラム 父は「森田公一とトップギャラン」のドラマー、北村勝彦。
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来歴
- 1979年9月21日 - 翔、Johnny、TAKU、嵐の4人でバンドを結成。「横浜銀蝿」という名称は、出入りしていた店舗のマスターから「お前らはいつも銀蝿みたいにうるさい」と言われたことから嵐が考案したと翔が述べている[8]。
- 1980年9月21日 - アルバム『ぶっちぎり』、シングル『横須賀Baby』の同時発売でデビュー。デビューに際し「デビューしてすぐに一番になれるもの」として「バンド名を日本一長くする」というアイデアの元、正式名称「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL」を決めた、と翔が述べている[8]。実際、表記が長いことから「T.C.R.横浜銀蝿R.S.」、あるいは単に「横浜銀蝿」「銀蝿」と略して表記されることもある。
- 「銀蝿一家」として、弟分グループ「紅麗威甦」(ぐりいす-杉本哲太らが在籍)、嶋大輔、矢吹薫、麗灑、妹分アイドルの岩井小百合らがデビュー。
- 1981年11月7日、東映系劇場でドキュメンタリー映画『ぶっちぎり横浜銀蠅』が公開される。
- 1983年7月23日、テレビドラマ『ザ・サスペンス・川崎探偵団』に出演。
- 1983年12月31日 - 解散。
- 1998年1月1日 - 「横浜銀蝿」として翔、TAKU、嵐の3人で再結成。
- 2002年 - 7月23日に「横浜銀蝿」解散。同日に「湘南銀蝿」結成。以降、同年9月22日に解散するまで翔、TAKU、嵐の3人もそれぞれ「シャーク」、「サンセット」、「ヤシの実」と名乗り夏季限定の音楽活動を行う。解散後の翌日から「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL RETURNS」の名称で活動再開した。
- 2006年6月9日「結成25周年記念コンサート」を横浜BLIZで行い再々始動。2010年にデビュー30周年を迎えた。
- 2010年9月21日のデビュー30周年記念では当初「武道館ライブ」を公言していたが横浜銀蝿の聖地でもある横浜教育会館の2DAYSとなった。
- オリジナルCDリリースが10年程止まっていて副業的な活動となっており。ライブも年10本程度にとどまっているが定期的に活動を続けている。
- 2018年11月、デビュー当時のディレクターである水橋春夫の「お別れの会」にて、Johnnyと翔が久々に顔を合わせたことがきっかけとなり[9]、2019年9月、Johnnyも加わった4人で「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL 40th」として、2020年にオリジナルメンバー全員で1年間限定の活動を行うことを発表した。
- 2020年08月7日、40thとしての活動を1年間延長することを発表。[10][11]
- 2021年12月31日、横浜銀蝿40thとしての活動を終了。
- 2022年、Johnnyを除いた3人にサポートメンバーを加えての『THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL』としての活動を再開。
総理官邸へ
横浜銀蝿はかつて「覚せい剤撲滅キャンペーン」でイメージキャラクターを務め、当時の中曽根康弘総理に総理官邸に招かれたことがある。その際の事をマッド・アマノが「つっぱり内閣」とパロディー化した。
ディスコグラフィ
要約
視点
シングル
アルバム
オリジナルアルバム
ベストアルバム
ライブアルバム
その他アルバム
映像作品
BOXセット
タイアップ一覧
楽曲提供
- 西城秀樹
- セクシーガール(1981年6月21日) - 作詞/作曲:横浜銀蝿/編曲:若草恵
- ミッドナイト・ストリート(1981年7月5日)ポップンガール・ヒデキ(SIDE A2) - 作詞/作曲:横浜銀蝿/編曲:若草恵
- とんねるず
- ピョン吉・ロックンロール(1981年8月25日) - 作詞/作曲:横浜銀蝿/編曲:小六禮次郎
- おれたちピョン吉バンド(1981年10月) - 作詞/作曲:横浜銀蝿/編曲:小六禮次郎
- 紅麗威甦
- しりとりRock'n Roll(お弁当のおかず編)(1982年1月20日) - 作詞/作曲/編曲:横浜銀蝿
- 三原順子
- だって・フォーリンラブ・突然(1982年5月21日) - 作詞:横浜銀蝿・山田麗子/作曲:TAKU/編曲:中島正雄
- ほ・ど・ほ・どマイダーリン(1982年5月21日) - 作詞:横浜銀蝿/作曲:TAKU/編曲:中島正雄
- 麗灑
- 小噺Rock'n Roll(1982年10月) - 作詞/作曲/編曲:横浜銀蝿
- 中森明菜
- わくらば色の風(ラヴ・ソング)(1983年8月10日) - 作詞/作曲:TAKU/編曲:横浜銀蝿・萩田光雄
タイピングソフト
- タイピング 横浜銀蝿 仏恥義理(2001年2月22日、ホロン)
他アーティストによるカバー
- ぶっちぎりRock'n Roll
- 紅麗威甦がアルバム『ヨ・ロ・シ・ク壱』の中でカバー。(1982年1月20日)
- 嶋大輔がシングル「男の勲章」のカップリング曲としてカバー。(1982年4月28日)
- 麗灑がアルバム『薫婬蝿いち』の中でカバー。(1982年)
- 石橋貴明がとんねるずのみなさんのおかげですの「タカ子姉さんのメリケンキッズ」のコーナーでラストに歌った。
- Happy Birthday
- 尻取りRock'n Roll
- 小泉今日子がアルバム『ナツメロ』の中でカバー。(1988年12月17日)
- 安田成美がトヨタ「シエンタ」のCMで歌った[13]。(2008年1月)
- ひまわりキッズがアルバム『こどもと歌いたい! ファミリーヒットソング』の中でカバー。(2008年6月25日)
- 神崎ゆう子がアルバム『ベスト・セレクション こどものうた〜ラクダになるぞ/しりとりロックンロール〜』の中でカバー。(2008年9月10日)
- HI-PRIXがダウンロードシングルとしてカバー。(2008年11月26日)
- 田村有実子としりとり隊がアルバム『こどものうた うたって!おどって!わらっちゃおう!』の中でカバー。(2009年1月21日)
- ザ50回転ズがシングルとしてカバー(2008年12月3日)する予定だったが発売中止になった[14]。
- ツッパリHigh School Rock'n Roll 登校編
- その他にも銀蝿一家によって多数カバーされている。
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コンサート
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出版物
著書
写真集
- ぶっちぎり(1981年、シンコー・ミュージック)
- 銀蝿一家写真集 銀ばる(1982年、小学館)
- 横浜銀蝿解散写真集 完全燃焼 (1983年、小学館)
- 横浜銀蝿 仏恥義理 RedZone(2011年、三栄書房)
バンドスコア
- ぶっちぎり(1981年、音春)
- ぶっちぎりII(1981年)
- 仏恥義理蹉あ怒(1981年、音楽春秋)
関連書籍
- ツッパルなら勝て! わたしはこうして横浜銀蝿一家を育てた 大坂英之著(1983年、ゴマ書房)
出演
映画
ドラマ
音楽番組
他多数
ラジオ
- 午後のロータリー(1981年4月11日、NHKラジオ)
- オールナイトニッポン(1981年4月25日、ニッポン放送)
- 夜はともだち内 横浜銀蝿只今参上(1981年、TBSラジオ)
- MBSミュージックマガジン(1981年10月 - 1982年3月、MBSラジオ)
- Y-Y-Y(2006年10月7日・2009年3月28日、FMヨコハマ)
- 武内陶子のごごカフェ(2020年4月24日、NHKラジオ、翔・Johnnyのみの出演)[16]
バラエティ番組
- 高見沢俊彦の美味しい音楽 美しいメシ(2024年3月8日、BS朝日)[17]
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銀蝿一家
ソロ
バンド
- 紅麗威甦 (グリース) - 杉本哲太、桃太郎、Mitz(ミッツ)、Leer(リー)
- アキ&イサオ
- BLACK SATAN (ブラックサタン)
- 紅麗威甦の杉本哲太の脱退により、ギターの麻生仁、ドラムの田口オサム、が加入した5人組のロックバンド。2005年に新ボーカル・森一馬を迎えて新生BLACK SATANが活動を再開。解散から18年ぶりにワンマンライブを「赤坂MOVE」、「L@N Akasaka」で行い、2006年4月5日に約20年ぶりにライブアルバムを、株式会社エクスプロージョンエンタテインメントよりリリース。「BLACK LABEL」を立ち上げる。ブラックサタンオフィシャルサイト
- WALTHER
- ストリート・ダンサー
脚注
関連項目
外部リンク
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