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横綱大関
大関空位、あるいは一人大関の時に、横綱が番付上大関の地位も兼任する形で表記すること ウィキペディアから
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横綱大関(よこづなおおぜき)とは、大相撲で番付において「大関空位(不在)」、あるいは「一人大関」の時に、横綱が番付上大関の地位も兼任する形で、表記される場合の呼び方である[1]。
概要
要約
視点
江戸時代以来、番付の東西それぞれに、大関・関脇・小結の三役がそろうことが必要であった。1890年に、横綱を免許された西ノ海が番付上ではじめて「横綱」と頭書された後も、大関は東西に存在していた。1896年5月場所小錦が横綱免許を受けた際、同じ東方に大関がいなかったため番付上「大関」をメインにして、その下に出身地の脇に「横綱」を付記する形をとることにした。その後1898年5月場所で朝汐が大関となったため小錦は西ノ海と同様に地位の部分に横綱と大書されて東に張り出された。これは、その当時まだ横綱が地位として確立されていなかったためのものであり、これが横綱大関のはじまりであった。
1904年1月場所、常陸山と梅ヶ谷とが同時に横綱に昇進したときに、大関が空位となった際も同様に地位は大関と大書され出身地の脇に「横綱」と付記する形をとった。1905年5月場所国見山と荒岩が同時に大関に昇進すると常陸山と梅ヶ谷は初めて大関の上位の枠内に「横綱」と大書された。これが横綱が大関の上の地位であることのきっかけとなった。
その後1909年に横綱が地位として定められた後も、1924年5月場所の常ノ花、1936年5月場所の男女ノ川が同様に「大関」が上で下に「横綱」と書くケースがあった。1943年1月場所の安藝ノ海の時にはじめて「横綱」と「大関」とを並べて書く現在の形式がはじまった。それ以後も、大関在位力士が1人しか居ない時や、1981年9月場所のような「3横綱・0大関」という状況の時に、「横綱大関」という形の番付表記がされている。1981年9月場所のケースでは、東西の正横綱だった北の湖と千代の富士を「横綱大関」とし、2代目若乃花は「東張出横綱」との番付表記であった。
例外として1955年のケースがある。1月場所と3月場所は4横綱1大関だったが西方には横綱を2人並べ、どちらにも「横綱大関」の表記はなされなかった。また同年9月場所にも4横綱で大関1人の状態だったが、西の正横綱は単に「横綱」の表記でさらに張出横綱を東西に置いたため、「大関」が西方には番付上存在しないことになってしまった。それに対しての批判もあったのか、次に大関が1人になった1959年5月場所では「横綱大関」の記載が復活した。
なお、これはあくまでも番付記入上の措置であり待遇は変わらない。場内放送でも「横綱」とアナウンスされる。NHK大相撲中継で、横綱大関の力士が登場する際の字幕も「横綱」で表記される。
この「横綱大関」は、1982年1月場所の西横綱・北の湖(東大関・琴風が「1人大関」)以来出ていなかったが、2020年3月場所で西横綱・鶴竜が38年ぶりに、「横綱大関」として西大関の地位を兼ねた[2]。この要因は、2020年1月場所限りで西大関・豪栄道の現役引退と、前2019年11月場所で大関から陥落した西関脇・髙安の特例復帰失敗[注釈 1]により、翌3月場所は東大関・貴景勝だけの「1人大関」になったためである。
また2022年11月場所では、西大関・正代が大関陥落の決定と、前2022年9月場所で大関から陥落した西関脇2枚目・御嶽海の特例復帰失敗により、16場所ぶりに翌2023年1月場所も西大関・貴景勝の「1人大関」になり、東横綱の照ノ富士が「横綱大関」を兼ねることとなった。1横綱1大関のみは125年ぶりとなる[3](ただし、初日直前になって照ノ富士も休場することが発表されている[4])。
番付上、横綱と大関の合計人数が1人または不在になった例はまだないが、1横綱1大関となっていた2023年3月場所にて大関・貴景勝が3勝3敗で途中休場したため、同年5月場所にてその事態が発生する可能性があった(同場所にて貴景勝が負け越し、かつ昇進の目安を満たす力士が出なかった場合、あるいは横綱・照ノ富士が引退した場合が該当)。そのような場合は関脇以下から繰り上げて大関を強引にでも作って横綱と大関の合計人数を2人揃えることになるというのが定説とされてきたが、現理事長の八角は、大関空位時の関脇以下からの補充に関しては否定的な見解を示しているため、今後は状況次第では横綱と大関の合計人数が1人または不在になることもありうるという可能性も否定できない。実際、2023年3月場所では、横綱が照ノ富士、大関が貴景勝の各1人1人ずつとなり、その後、直前で照ノ富士が休場したため、実際に大関以上で相撲を取ったのは貴景勝1人であったものの、照ノ富士の休場表明は番付発表後だったため影響はなかった。この場所は大関が1人しかいなかったため、休場した照ノ富士が番付上横綱大関となっていた。更に貴景勝も途中で休場し、以降は場所終了まで横綱・大関不在のままであった。
番付における張出は1994年5月場所を最後に廃止され以前の張出に相当する力士も現在は番付の欄内に記載されるようになったため、今後横綱が3人以上でかつ大関が1人のみもしくは不在となった場合番付記載がどのようになるかは不明である。 この場合は次のような方法が考えられる。
- 張出があった時と同様に正横綱を横綱大関とする。ただしその場合は「横綱大関、横綱、関脇、小結…」のようになって、番付表記上の地位の順序に矛盾が生じてしまう。実際張出があった1981年9月場所においても、正横綱が大関の地位を兼ねるのに、下位であるはずの張出横綱がそうではないのはおかしいのではないかという声もしばしば上がったという。
- 東または西、あるいはその両方に2人以上いる横綱のうち最下位の者を横綱大関とする。その場合は「横綱、横綱大関、関脇、小結…」となって、地位の順序には矛盾は生じない。ただし、横綱の下位が横綱大関であるかのようで、まぎらわしいのが難点である。横綱大関と横綱は表記上異なるというだけで上下関係はなく、同じ横綱である。
- 東または西、あるいはその両方に2人以上いる横綱を単に「横綱」とだけ表記し、「横綱大関」の表記を行わない。1955年の前例があるが、番付上の「大関」が1人もしくは不在になってしまう(1955年の例は大関1人で、番付上の大関不在は前例がない)。
- 張出を復活させた上で正横綱を横綱大関とする。
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横綱大関一覧
- 昭和11年(1936年)5月場所
- 昭和13年(1938年)1月場所
- 昭和18年(1943年)1月場所
- 昭和18年(1943年)5月場所
- 昭和19年(1944年)1月場所
- 昭和19年(1944年)5月場所
- 昭和34年(1959年)5月場所
- 昭和34年(1959年)7月場所
- 昭和34年(1959年)9月場所
- 昭和41年(1966年)7月場所
- 昭和50年(1975年)1月場所
- 昭和54年(1979年)11月場所
- 昭和55年(1980年)1月場所
- 昭和56年(1981年)5月場所
- 昭和56年(1981年)7月場所
- 昭和56年(1981年)9月場所
- 昭和56年(1981年)11月場所
- 昭和57年(1982年)1月場所
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記録
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横綱大関勝率
横綱大関在位
横綱大関連続在位
横綱大関優勝
関連項目
脚注
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