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橋口文蔵

日本の官僚 ウィキペディアから

橋口文蔵
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橋口 文蔵(はしぐち ぶんぞう、嘉永6年6月1日1853年7月6日[1] - 明治36年(1903年8月10日)は、明治期の官吏実業家札幌農学校長等を歴任。

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橋口文蔵

経歴

薩摩国薩摩藩士橋口兼三の長男として生まれる。叔父に樺山資紀橋口伝蔵、いとこに樺山愛輔がいる。

明治5年(1872年)に慶應義塾に入り、卒業後に開拓使に勤務していたが、官費留学生となり明治12年(1879年)にマサチューセッツ農業大学に留学。明治14年(1881年)に帰国したのち農商務省奏任掛から、少書記となる。その後、北海道庁理事官となると、現地で各種の製糖研究と技術普及を行う。更に農場開発にも着手した。明治16年(1883年)、紋別(現伊達市)製糖所々長を務め、明治20年(1887年)、壮瞥町で橋口農場を開き、更に同年留寿都村でも農牧場を開設し、米国農法を普及すべく、米国製農具などを輸入し、使用を奨励した[2]

1891年アイヌ民族共有財産を別会社の株券に替えたスキャンダルにて、北海道庁第二部長ならびに札幌農学校校長ともに「非職(諭旨免職)」になる。

札幌農学校長「非職(諭旨免職)」を経て、根本正藤田敏郎等の、墨国(メキシコ)の太平洋沿岸視察が始まると、これに参加し、明治27年(1894年)にメキシコを探検。森鷗外から「大胆そのものの人物」と称された。帰国後に台湾総督府殖産局入局。更に明治29年(1896年)には台北県知事となる。

明治28年(1895年)に北海道伊達市大滝区の優徳および北湯沢に農場を拓いたのが旧・大滝村の開拓の始まりと伝えられる[3]

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家族

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栄典・授章・授賞

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

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