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毛利綱広
長州藩2代藩主。毛利秀就の四男。従四位下、侍従、大膳大夫、贈従三位 ウィキペディアから
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毛利 綱広(もうり つなひろ)は、江戸時代前期の大名。毛利氏16代当主。長州藩2代藩主。初代藩主・毛利秀就の四男[1][2]。生母・喜佐姫が徳川家康の孫なので、綱広は家康の外曾孫に当たる。
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生涯
寛永16年11月20日[1](1639年12月14日)に江戸桜田の藩邸で生まれる[2]。慶安4年(1651年)、父・秀就の死去で跡を継ぐ[1][2]。承応2年(1653年)に叙任し、4代将軍・徳川家綱(綱広の外又従弟にあたる)から偏諱を受けて綱広と名乗った[2]。承応3年(1654年)には萩と周防国三田尻を結ぶ萩往還を造った。その際に、三田尻御茶屋を築造して、参勤交代の拠点とした。藩政では、榎本就時を起用して万治制法と呼ばれる法令「33か条の条目」を万治3年(1660年)に制定させた[2]。これは毛利元就以来の先例をまとめ上げたものと言われている。
このように藩政を確立したが、その反面で反骨心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは外従兄妹にあたる)にもかかわらず、徳川家康と同じ五大老の一人であった毛利輝元の嫡孫であるということから、徳川家に仕えることを恥として、江戸に滞在しながら病と称して江戸城に登城しないことさえあったという[2]。幕府側からは綱広の母が徳川家康の次男・結城秀康の娘であることから幕府から追及はされなかったが[2]、これを口実とした改易を恐れた家臣が綱広に隠居を要求するようになる[2]。綱広はやむを得ず、天和2年(1682年)2月27日[1]に長男の吉就に家督を譲って、麻布の藩邸に隠居した[2]。
元禄2年4月17日(1689年6月4日)に江戸麻布龍土邸で死去した[1][2]。享年51[1][2]。墓所は山口県萩市椿の大照院[1][2]。昭和3年(1928年)11月に従三位を追贈された[2]。
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系譜
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偏諱を与えた人物
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毛利綱広を演じた人物
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脚注
参考文献
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