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内藤弌信

江戸時代前期から中期の大名。村上藩初代藩主 ウィキペディアから

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内藤 弌信(ないとう かずのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名越後国村上藩初代藩主。官位従四位下豊前守

概要 凡例内藤弌信, 時代 ...

生涯

万治元年(1658年)、内藤信光(家祖内藤信成の次男・内藤信広旗本5000石、一時は大名だった)の子)の子として江戸にて誕生した。生母は前川氏と記すものがあるが(『村上郷土史』77頁)「寛政重修諸家譜」は「某氏」、国立公文書館蔵「内藤家譜」は「家女」とする他に所見がない。

寛文7年(1667年)に徳川家綱に初めて御目見し、のち延宝元年(1673年)に棚倉藩主・内藤信良の養子となる。同年従五位下・紀伊守となり、翌2年(1674年)11月16日に家督を継いだ。

宝永2年(1705年)、所領を駿河国遠江国内に移されて田中城を居所としたが、正徳2年(1712年)5月15日に大坂城代となり、従四位下に叙せられ豊前守に改めた。享保5年(1720年)9月19日、越後国岩船蒲原三島3郡に移されて村上城に住した。

享保10年(1725年)2月18日に養父・信良が晩年に儲けた信輝に家督を譲った。しかし同年に信輝が死去したため、その子の信興が跡を継いだ。享保15年(1730年)に江戸で死去した。享年73。

葬地は小石川無量院(廃寺)とされている(「寛政重修諸家譜」)。墓所は新潟県村上市の天徳寺に移されている。

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系譜

子女は「寛政重修諸家譜」が掲げるのは養子「信輝」を除いた6男3女である[1]

父母

正室、継室

子女

養子

系図

太線は実子、細線は養子。

 内藤信成
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
  信正                            内藤信広(旗本)
  ┃                              ┃
  信照棚倉藩)                        信光
  ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓      ┏━━━━╋━━━━┓
  信良                内藤信全(旗本)弌信    信清   信之
  ┝━━━━━━━━┓         |    (棚倉藩へ) |
  弌信村上藩)  信輝弌信養子)   信有          信之
  |                  ┃           |
  ┝━━━━━┳━━━┳━━━┓    信朋          信盛(絶家)
  信輝     ┃   ┃   ┃    |
  ┃     信盛   ┃   信庸   信庸
  信興         ┃
  ┣━━━━┓    ┃
  信旭   信凭  京極高長

脚注

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出典

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