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吉田清成
日本の藩士、官僚 ウィキペディアから
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吉田 清成(よしだ きよなり、弘化2年2月14日(1845年3月21日)- 明治24年(1891年)8月3日)は、日本の外交官、財政家、華族(子爵)[1]。幼名は巳之次。通称は太郎。留学中の変名として永井五百助を名乗った。
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来歴・人物
弘化2年2月14日、薩摩藩士吉田源左衛門の4男として鹿児島城下の上之園町に生まれる。
慶応元年(1865年)に藩の留学生としてイギリスに留学し、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学んだ[2]。その後、アメリカに留学し、ラトガース大学で学ぶ[3]。海外留学当初は、航海学を学ぶが、後に政治学、経済学に転じた。明治3年(1870年)の帰国後に大蔵省に出仕して租税権頭、大蔵少輔を歴任、金本位制を主張する。明治5年(1872年)に外債募集のために渡米。カリフォルニア銀行やジェイコブ・シフと交渉する。ところが担保捻出措置としての秩禄処分に反対する岩倉使節団と衝突し、ニューヨークの新聞で報道されてしまう。それでもシフは引受に前向きであった。協議が必要であるというので、吉田はシフの代理人に連れられてイギリスへ。かいなく利率の交渉で平行線に。情報の早いロンドンにはたくさんのオファーが来た。結局オリエンタル・バンクの申し出を受けて、条件こそ良かったが申込の遅かったオランダ商館の方は流れた。翌年、外債は年利7%で発行され、借入金は大半が直ちに地金・洋銀へ交換され準備金に充てられた。
1874年にアメリカ滞在のまま同国駐在公使に任命された。明治11年(1878年)に締結された吉田・エバーツ条約で知られている。
明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントの来日決定に伴って一時帰国し、接待にあたった。明治15年(1882年)に外務大輔に任命されて帰国、外務卿・井上馨の元で条約改正にあたった。明治18年(1886年)に農商務大輔に転じて、そのまま初代次官に任じられた。
明治20年(1887年)に子爵に叙せられて、7月26日に元老院議官[4]に転出、翌年には枢密顧問官となるが、病気のため47歳で芝区白金志田町の自邸に於いて急死した。
生前、多数の手紙・日記・記録などを遺しており、これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。
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墓所・霊廟・銅像

墓所は青山霊園の中央交差点前にある。 昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[5]』の一人として銅像が建てられている。
栄典
- 位階
- 明治4年
- 1874年(明治7年)10月18日 - 従四位[6]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[6][7]
- 1888年(明治21年)10月20日 - 正三位[6]
- 1891年(明治24年)7月31日 - 従二位[6][8]
- 勲章等
- 1878年(明治11年)2月6日 - 勲三等旭日中綬章[6]
- 1880年(明治13年)3月27日 - 勲二等旭日重光章[6]
- 1887年(明治20年)5月9日 - 子爵[6][9]
- 1889年(明治22年)
- 外国勲章佩用允許
親族
脚注
関連文献
外部リンク
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