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永沢富士雄
日本のプロ野球選手 ウィキペディアから
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永沢 富士雄(ながさわ ふじお、1904年〈明治37年〉9月13日 - 1985年〈昭和60年〉3月19日)は、北海道函館市出身のプロ野球選手(内野手)。
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来歴・人物
函館商業学校を卒業後、1925年に函館太洋倶楽部(函館オーシャン倶楽部)に入団。当初は外野手であったが、選手兼任監督の久慈次郎の指導により後に一塁手に転向した。函館太洋のチームメイトに益田喜頓がいた。
1934年にベーブ・ルースが来日した際の日米野球で日本代表に選ばれ、久慈の推薦によりこの時の日本代表を母体として結成された大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍・読売ジャイアンツ)に入団し、アメリカ遠征にも参加した。背番号は4。
巨人軍初の公式戦となった1936年7月1日の対名古屋軍戦(戸塚球場)では4番・一塁手で先発出場した[1]。先発4番はこの1試合のみであったが、このことから永沢は巨人の初代4番打者として名を残すことになった。1936年は筒井修と交互に一塁を守るも、年間を通じて打率.140に留まる。1937年は一塁手のレギュラーとなって五番または六番を打ち、春秋通算で46打点と中島治康(67打点)に次ぐチーム2位の打点を記録した。
1938年8月の函館遠征で古巣の函館太洋倶楽部と対戦した際に永沢が足を捻挫したことをきっかけに、同年の秋季リーグからは川上哲治が一塁に定着したため、主に川上が投手として出場する際の代わりの一塁手や終盤の守備固めとして起用されるようになった。
1943年限りで現役引退。引退後は函館新聞社の記者を務めるかたわら、函館太洋の監督を務めるなど後進の指導にもあたった。1985年3月19日に80歳で死去。
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選手としての特徴
派手さはないが堅実な一塁守備で、ファン受けはあまりしなかったが「難しい球を難しく捕らない」との持論で玄人好みのプレーをしていた。シートノックで、三塁手の水原茂がわざと難しいハーフバウンドの送球をして困らせようとしたことがあったが、永沢に素知らぬ顔でさばかれてしまい、がっかりしていたという[2]。
長い爪(小指芯)のあるファーストミットを日本で初めて使用したのが永沢とされる。アメリカ遠征でヒントを掴み、日本製のミットに対して針金を芯にして革紐を軟らかい銅線に渡し、断熱用テープと絆創膏を巻き付けて爪を作った。見かけは悪かったが、送球を捕りやすいということで、他チームでも真似をするようになったという[2]。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 6 (1935年)
- 4 (1936年 - 1943年)
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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