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日米野球

日本プロ野球とメジャーリーグベースボールの選抜チームが日本で対戦したシリーズ戦 ウィキペディアから

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日米野球(にちべいやきゅう[注釈 1]英語Major League Baseball Japan All-Star Series)は、日本プロ野球(NPB)とメジャーリーグベースボール(MLB)の選抜チームが日本で対戦したシリーズ戦。明治時代から行われていた歴史的な国際野球試合であり、野球の国際化に伴って2006年をもって一旦休止されたが、2014年野球日本代表(侍ジャパン)の強化試合として復活した[1]。なお、野球日本代表は2013年から通年化され、概ね3月・11月(年度により開催のなかった年もある)に「侍ジャパンシリーズ」と銘打って、野球のナショナルチーム間の強化試合、あるいは日本野球機構(NPB)のチームとの強化試合に充てる場合もある。

概要・歴史

明治

1908年明治41年)
運動具会社でもあったリーチ社により、MLB選手6人を含む3A選手を中心とした選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」が訪日したのが、日米野球のはじまりである。大隈重信による始球式で開幕した早稲田大学戦を皮切りに、慶応大学、東京倶楽部、横浜連合、神戸連合などと計17試合が行われ、アメリカが全勝して日本チームを圧倒した。早稲田大学戦ではボストン・ブレーブスのP・プラハティ投手が、試合時間わずか40分の完全試合を達成している[2][3]

大正

1913年大正2年)
「世界一周野球団」としてニューヨーク・ジャイアンツシカゴ・ホワイトソックスの2球団が、日本中国オーストラリアエジプトフランスイギリスなどを訪問して試合を行った。これがMLB球団としての初来日である。日本では、ニューヨーク対シカゴ戦(シカゴ2戦2勝)と、ニューヨーク・シカゴ連合対慶應義塾大学戦(16対3で連合勝利)が行われた[3][4]
1920年(大正9年)
3Aコーストリーグ主体の「オール・アメリカン・ナショナル」が来日。アメリカチームが6戦全勝した。この時に来日したボストン・レッドソックスのH・ハンター選手は翌年1月まで日本に留まり、早稲田大学などの日本の大学チームを指導した[3]
1922年(大正11年)
大学チームを指導したH・ハンター選手率いるMLB選抜が来日。東京六大学を中心に17試合が行われ、第7戦ではエース投手の小野三千麿擁する三田倶楽部が9対3で勝利し、日米野球における日本チームの初勝利となった[3]

昭和(戦前)

1927年昭和2年)
アフリカ系アメリカ人選手を中心とするニグロリーグが混成チーム、フィラデルフィアの「ロイヤル・ジャイアンツ」を結成して来日。三田倶楽部、同志社大学関西大学などと24試合を行い、23勝0敗1分で日本チームを圧倒した[2]
1931年(昭和6年)
読売新聞社正力松太郎社長がMLB選抜を招き、初めて読売新聞社主催により開催された。鉄人ルー・ゲーリッグや剛腕レフティ・グローブら大物選手擁するMLB選抜を相手に、日本は初めてオールスターチームを結成して挑むも、17戦全敗に終わった[2]
1932年(昭和7年)
ニグロリーグ混成チームの「ロイヤル・ジャイアンツ」が再来日。関西、中国、九州地方まで遠征して試合を行った。広島専売社会人クラブチームとして初勝利、日本チームとして11年ぶりの勝利を挙げた。ジャイアンツの24戦23勝1敗[3]
1934年(昭和9年)
ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスの三大本塁打王に、速球王のレフティ・ゴメスらを擁するMLB選抜が、智将コニー・マック監督とともに来日。対する日本は初めてプロのチーム「全日本軍」で挑むも、16戦全敗に終わった。しかし、静岡県草薙総合運動場硬式野球場での沢村栄治の好投は今でも日本で語り草となっている。なお、三大本塁打王が来日したとあって試合で多くの本塁打が期待されたため、読売新聞社はスタンドに入った本塁打ボールを記念品として来場者にプレゼントした。その期待通りにMLB選抜は全16試合で47本塁打(119打点)を記録した[2][3]。この時来日した選手のひとり、モー・バーグが対日スパイ活動を行っていたことが後に判明した[5]。この年の日米野球をきっかけとして、12月に日本初の職業野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された。

昭和(戦後)

1949年(昭和24年)
第二次世界大戦の影響で開催が断たれていた日米野球が16年ぶりに再開。3Aパシフィック・コースト・リーグのサンフランシスコ・シールズが来日(日本では大リーグと喧伝される)、全試合が超満員となる盛況ぶりであった。当時の日本は米国占領下であり日の丸君が代はタブーであったが、第一戦では試合開始前に君が代が流され、後楽園のセンターポールには戦後初めて日の丸が翻った[6]。また場内ではコカ・コーラホットドッグ等も販売された[3]
このシリーズの初戦を、大相撲の横綱前田山英五郎が大阪で開催中の秋場所を途中休場して観戦し、後日これが発覚して引退に追い込まれるという事件もあった。
1951年(昭和26年)
MLBとパシフィック・コースト・リーグの混成チームが来日、この年限りで引退したジョー・ディマジオが弟のドム・ディマジオと共に参加し2本塁打を放った。
1953年(昭和28年)
この年は同時期に毎日新聞社エディ・ロパットを団長としたMLB選抜を、読売新聞社がニューヨーク・ジャイアンツを招聘するという、慌ただしい日程で開催された。その後、両社は協議を行い、今後は交互にアメリカチームを招聘する協定が結ばれた[3]
1955年(昭和30年)
1953年までワールドシリーズ5連覇を達成したニューヨーク・ヤンキースが来日。ミッキー・マントルヨギ・ベラホワイティー・フォードなど主力の殆どが顔を揃えたヤンキースに日本勢は全く歯が立たず、0勝15敗1分と惨敗した。
1956年(昭和31年)
前年に初めてワールドチャンピオンとなったブルックリン・ドジャースが来日。ジャッキー・ロビンソンロイ・キャンパネラデューク・スナイダーピー・ウィー・リースギル・ホッジスなどの当時の主力に混じって、当時2Aの選手だったジム・ジェンタイル(後に近鉄バファローズに入団。近鉄での登録名はジムタイル)がメンバー入りし、チーム最多の8本塁打を記録した。
ロビンソンは帰国後にニューヨーク・ジャイアンツへのトレードを拒否して現役を引退したため、この日米野球が最後のプレーとなった。
1958年(昭和33年)
大リーグの至宝、スタン・ミュージアルを擁するセントルイス・カージナルスが来日。ミュージアルは16試合で2本塁打、打率3割以上をマークした。またのちに南海ホークスでプレーし阪神・南海監督も務めたドン・ブラッシンゲーム(日本球界での登録名はブレイザー)も来日。ブラッシンゲームの守備の構えには広岡達朗も感銘を受け、理想の守備が閃いたという。日本側はルーキー長嶋茂雄杉浦忠等若い力が台頭し、特に長嶋は大リーグ級と絶賛されたほどである。またこの年は読売新聞社主催にもかかわらず、読売ジャイアンツ単独との試合がなかった。
1966年(昭和41年)
本拠地をニューヨークからロサンゼルスに移したドジャースが来日。王貞治が5本塁打を放つなど日本チームが健闘し、勝ち越しまであと一歩のところまで迫る過去最高の成績(8勝9敗1分)を収めた[3]
11月8日の対巨人戦(後楽園)は1959年6月25日の巨人対阪神戦に続く日本プロ野球史上2度目の天覧試合となったが、この試合でも巨人・長嶋茂雄は1959年同様本塁打を放っている。しかし、1959年の時とは対照的にあまり知られていない。また、同じ巨人・王貞治は別の試合で本塁打を放ったものの、前の走者である柴田勲を追い越しアウトとなっている(記録上は単打)。王はシーズン公式戦(日本シリーズオールスター戦も含む)における幻の本塁打は雨天ノーゲームによるものも含め1本もないため、これも隠れた珍記録となっている。
このシリーズに不参加のドジャースのエース、サンディー・コーファックスは終了後の11月18日に突然現役引退を表明した。
1968年(昭和43年)
セントルイス・カージナルス、全日本で阪神江夏が2試合に登板して2勝(第3戦6-0、第8戦3-0)、王貞治は6ホームラン、カージナルスの13勝5敗。
カージナルスのボブ・ギブソンは4試合に登板して2勝(第1戦9-8、第5戦8-1、第9戦9-7、第11戦13-10)
1970年(昭和45年)
この年のみ、11月ではなくシーズン開幕前の3月下旬に行われた。来日チームはサンフランシスコ・ジャイアンツで、ウィリー・メイズゲイロード・ペリーなど主力選手のほとんどが参加したが、オープン戦で本調子ではなかったのか、3勝6敗と負け越した。全日本なし、巨人1試合、ロッテ5試合。
また、この年ジャイアンツとマイナー契約を交わした日本人の鈴木弘も来日メンバーに入り、2試合に出場したが、鈴木はこの年限りで契約を解除され、翌年ロッテにテスト入団するも一軍出場のないまま現役を引退している。
1971年(昭和46年)
この年までリーグ3連覇のボルチモア・オリオールズが来日。11月2日に行われた第7戦でパット・ドブソンが巨人相手にノーヒットノーランを達成している。
1974年(昭和49年)
ニューヨーク・メッツが来日。この年に現役を引退した長嶋茂雄が1試合を除いて全試合に出場し、27打数12安打、打率.444と活躍し現役の最後を飾った。トム・シーバーは5試合で1勝2負、またアトランタ・ブレーブスハンク・アーロンも来日し、王貞治とホームラン競争を行った。ホームラン競争第4ラウンドで王が右翼ポール付近に叩き込んだ、ところがハンク・アーロンが判定にクレームをつけ、判定が覆った。最終戦(巨人vsメッツ、11月20日)の試合後に、巨人監督の川上哲治が勇退を表明した。
1978年(昭和53年)
1975年・1976年と2年連続してワールドシリーズを制し、「ビッグレッドマシン」と呼ばれていたシンシナティ・レッズが来日。特にその年通算3000本安打を記録した安打製造機ピート・ローズは闘志あふれるプレーとともに人気を集め、他にもジョニー・ベンチトム・シーバーらも人気を集めた。広島市民球場での巨人・広島連合チームとの対戦では赤ヘル同士の対決が話題を呼び、更に平和台球場で行われた巨人・クラウン連合との対戦では「福岡最後のライオンズ」を見ようとで西鉄時代からの多くのファンが集まった。日本人選手では小林繁がベンチから賞賛されたが、最終日の11月21日にその小林を翻弄させることになる江川事件が勃発する。レッズは14勝2敗1分と圧倒的な戦績を収めた[6]が、帰国直後にスパーキー・アンダーソン監督が解任され、ローズもFA権を取得してフィリーズに移籍、ビッグレッドマシンは「解体」となった。
1981年(昭和56年)
1980年ワールドシリーズフィラデルフィア・フィリーズに2勝4敗で敗れ、ワールドチャンピオンはならず、1981年には50日間に及ぶストライキによってシーズンが前後期制となり、前期は20勝30敗。後期には優勝を果たすものの、前期優勝したアスレチックスとのディビジョン・シリーズでは3連敗で敗れ去ったカンザスシティ・ロイヤルズが来日。
1984年(昭和59年)
1983年ワールドシリーズを制したボルチモア・オリオールズが来日。後にMLB連続試合出場記録をつくる鉄人カル・リプケン・ジュニアもこの時来日した。この年は日本プロ野球50周年を記念して、日本シリーズを制したチームとオリオールズとで「日米決戦」と銘打たれた5試合制のシリーズに(その後は10試合の親善試合)。広島カープがオリオールズと対戦した。初戦は川口和久が6被安打10奪三振の完封勝利を挙げるも、その後は4連敗に終わった。日本チーム全体では14戦8勝5敗1分。オリオールズのエディ・マレーが9本塁打を放つ活躍を見せた[3]
1986年(昭和61年)
この年よりMLB選抜の招聘となり、全試合全日本との対戦となった。この年のワールドシリーズの優勝監督で、読売ジャイアンツに選手として所属していたデービー・ジョンソン(メッツ)が監督を務める。当初来日が予定されていたドワイト・グッデンウェイド・ボッグスゲイリー・カーターらの不参加はあったが、のちに殿堂入りするカル・リプケン・ジュニアオジー・スミスライン・サンドバーグトニー・グウィンが来日し、6勝1敗と強さを見せつけた。同年サイ・ヤング賞を受賞したマイク・スコットスプリット・フィンガード・ファストボールを操り、ホセ・カンセコボン・ヘイズがいずれも最多の4本塁打を放ち、第3戦以後唯一の捕手として出場し続けたトニー・ペーニャは座ったまま二塁に牽制球を投げて落合博満をアウトにするなど、圧倒的な技術とパワーの差を見せつけた。ペーニャがMVPに選出された。また、のちに読売ジャイアンツでプレイするジェシー・バーフィールド、中日ドラゴンズでプレイするブルック・ジャコビー、阪神タイガースでプレイするグレン・デービスも来日していた。
1988年(昭和63年)
最大の目玉はオーレル・ハーシュハイザー。この年、MLB記録の59イニング連続無失点を樹立し、サイ・ヤング賞を受賞。この年のワールドシリーズでもMVPを受賞したが、本調子には遠く、途中で帰国。チームも3勝2敗2分で辛うじて勝ち越した。監督は1978年にレッズの監督として来日したスパーキー・アンダーソン(タイガース)。MVPはバリー・ラーキン。ラーキンの他にもポール・モリターカービー・パケットグレッグ・マダックスフレッド・マグリフらのちに1990年代のMLBを代表するスター選手がいた。

平成

1990年平成2年)
前年の1989年阪神タイガースで大活躍し、この年にMLBに復帰して本塁打王打点王を獲得するという素晴らしい成績を収めたセシル・フィルダーが、MLB選抜の一員として凱旋来日した。また、後にMLBシーズン最多本塁打記録を塗り替えるバリー・ボンズや、ケン・グリフィー・シニアケン・グリフィー・ジュニア親子が揃って来日した。東京ドームで行われた第8戦では、チャック・フィンリーランディ・ジョンソンの継投によるノーヒットノーランを達成している。なお、この年の対戦成績は全日本の4勝3敗1分となり、82年の日米野球の歴史において、初めてMLB選抜チームに勝ち越した[3]。日米野球終了後、MLB選抜で来日したR.J.レイノルズが大洋ホエールズと契約を交わした。
1993年(平成5年)
トミー・ラソーダ監督率いるロサンゼルス・ドジャースが来日。2試合を行うも選手たちの調整不足もあって全敗した。これを最後にMLBチーム単独での来日は無くなり、以降はMLB選抜チームを隔年で招待することになった[3]
1994年(平成6年)
この年、MLBでは新たな労働契約を巡って経営者側と選手会側が激しく対立、シーズン後半から長期間に渡るストライキに突入した影響で日米野球は中止となった。
1996年(平成8年)
前年の1995年近鉄バファローズからロサンゼルス・ドジャースへ移籍し、その独特のトルネード投法で好成績を収め、日米で「NOMO旋風」を巻き起こした野茂英雄が、MLB選抜として凱旋来日した。後に同じくMLB選手として活躍するイチロー松井秀喜との対戦には注目が集まった。他にも、野茂の相棒であったマイク・ピアッツァ、バリー・ボンズやカル・リプケンといったスター選手も来日した[3]
2000年(平成12年)
この年に横浜ベイスターズからシアトル・マリナーズへ移籍し、「大魔神」から「DAIMAJIN」となって抑え投手として活躍した佐々木主浩が凱旋来日した[3]
2002年(平成14年)
前年の2001年オリックス・ブルーウェーブからシアトル・マリナーズへ移籍し、1年目から両リーグ通じて最多安打(新人最多安打記録)、史上初となるアメリカンリーグ新人王MVP首位打者盗塁王シルバースラッガー賞ゴールドグラブ賞の同時受賞を果たすなど、日米で大フィーバーを巻き起こしたイチローと、1999年に横浜ベイスターズからボストン・レッドソックスへ移籍し、この年にモントリール・エクスポズでキャリアハイの13勝を挙げた大家友和が凱旋来日した。日米野球においてもイチローは安打を量産した。トリー・ハンターが再三にわたり好守を披露してシリーズMVPを獲得。日本側では、巨人松井秀喜が、翌年からMLBに移籍することが決定している中での日米野球出場であったため、果たして松井がMLBで通用するのかどうかの判断基準として、松井とMLB各投手との対決にも注目が集まった[3]
2004年(平成16年)
2002年ヤクルトスワローズからロサンゼルス・ドジャースへ移籍した石井一久と、この年に中日ドラゴンズからサンディエゴ・パドレスへ移籍した大塚晶則が凱旋来日した。東京ドームで行われた第8戦において、デビッド・オルティーズアンダースロー渡辺俊介から放った超特大の本塁打には、多くの日本人ファンを驚かせた。
2006年(平成18年)
前年の2005年福岡ダイエーホークスからシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、ワールドシリーズ制覇に貢献する活躍をした井口資仁と、この年に福岡ソフトバンクホークスからシアトル・マリナーズへ移籍し、日本人初のMLB捕手となった城島健司が凱旋来日した。
日本プロ野球選手会は「(日米野球は)一定の役割を終えた。次回以降の大会は参加しない」と発言、2006年大会を最後に開催が中断された。これは、2006年からMLB選手が参加する国際大会「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」が始まったことにより、NPB/MLBのトッププロ選手による真剣勝負の場が誕生したためである。ただし、日米野球が中断された理由はこれだけではなく、2005年からアジアシリーズ2007年からクライマックスシリーズが始まったことにより、選手たちの負担が増えたことも理由のひとつである。とくに2006年は、3月にWBC、11月に日米野球、アジアシリーズと大会が重なった。
2014年(平成26年)
2月27日日本野球機構熊﨑勝彦コミッショナーが記者会見で、11月に野球日本代表(侍ジャパン)とMLB選抜による強化試合を開催することを明言。侍ジャパンの強化試合という形で「日米野球」が8年ぶりに復活することになった。これは、代表常設化とそれに伴う代表事業の株式会社化により、これからの事業拡充の重要性を指摘しており、「侍ジャパンを振興の大きな柱に据えたい」と話した[7]6月10日には2014年大会の開催要項が発表され、11月12日から20日まで、沖縄でのエキシビションゲームを含む6試合が開催されることになった。また11月11日には、日本プロ野球80周年記念試合として「阪神・巨人連合対MLBオールスター」も開催されることになった[8]
2018年(平成30年)
5月1日、MLBが11月に開催することを発表[9]
その後順次メンバーが発表され、MLB選抜にはコーチに松井秀喜が、投手に前田健太が選出された。試合は東京ドームで3試合、マツダスタジアムで1試合、ナゴヤドームで2試合。このほか、MLB選抜と巨人のエキシビションマッチ1試合、侍ジャパンとCPBL選抜による壮行試合が1試合行われた。MLB選抜の前田は途中からチームに帯同し、マツダスタジアムに凱旋先発登板を果たした。
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対戦記録

要約
視点
さらに見る 回, 開催年 ...

通算成績(米国359勝、日本93勝)

[2][3][10][11]

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日米野球の主催新聞社

1953年、これまで日米野球を主催してきた読売新聞社がニューヨーク・ジャイアンツを招聘すると、毎日新聞社側もエド・ロパットを団長とする大リーグオールスターチームを招待。対戦相手を代えて2回連続して日米野球を開催するという変則事態となった。その後は両社間の協議により、1955年からは読売と毎日が交互に主催することになった。

なお、読売主催時にはNPB対MLBの試合が1試合減り、代わりに巨人対MLBの親善試合が日米野球第1戦の前に行われる。

2018年大会では大会主催として読売新聞社、会場主催として東京新聞中日新聞東京本社。東京会場)と中日新聞社(名古屋本社。広島・名古屋会場)[12]が担当する新たな大会運営形態で行われる。

冠スポンサー

開催球場

(2000年以降。球場名は当時)

2000年
2002年
  • 第1、5、6、7戦:東京ドーム
  • 第2戦:福岡ドーム
  • 第3戦:大阪ドーム
  • 第4戦:札幌ドーム
2004年
  • 第1、2、3、8戦:東京ドーム
  • 第4戦:福岡ドーム
  • 第5戦:大阪ドーム
  • 第6戦:札幌ドーム
  • 第7戦:ナゴヤドーム
2006年
  • 第1、2、3戦:東京ドーム
  • 第4戦:京セラドーム大阪
  • 第5戦:福岡Yahoo!JAPANドーム
2014年
2018年

「日米野球」以外での来日MLBチームとの対戦記録

さらに見る 開催年, 来日チーム ...

通算成績(米国14勝、日本21勝)

[13][14][15]

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脚注

関連項目

外部リンク

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