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池田由成
江戸時代初期の池田氏の家臣。備前岡山藩家老。天城池田家2代。即心院の長男。正室に団氏。子に池田由有(-1668)、百子(岡田元昌の妻)、益子(栗津元房の妻) ウィキペディアから
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池田 由成(いけだ よしなり)は、江戸時代初期の備前岡山藩池田氏の家臣。天城池田家2代当主。
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生涯
慶長10年(1605年)池田家家老・池田由之の子として生まれる。元和元年(1615年)幕府の証人として江戸に下向し、江戸城で将軍・徳川秀忠に拝謁する。元和4年(1618年)に父・由之が殺害されると、かわりに米子城3万2,000石と「出羽」の名を相続して、池田光政に家老として仕えた。
元和9年(1623年)7月、藩主光政が将軍・家光に従い上洛した際に供をする。寛永5年(1628年)、藩主・光政と大御所・秀忠の養女・勝子(本多忠刻の娘)の婚礼の際に御礼使として江戸に下り、江戸城で将軍・家光に拝謁する。寛永9年(1632年)には藩主・光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと移封されたので、由成も備前国下津井城主に転じた。その後、一国一城令でこの城が破却されたので、天城に陣屋を設けてそこに移った。慶安2年(1650年)、藩主・光政の娘・輝子と一条教輔の婚礼のため上京する。
寛文8年(1668年)7月1日に隠居して三男の由孝に跡を譲った。門閥家老として津田永忠等と対立し、光政に疎まれ隠居を命じられたためである。その後は天城で余生を送る。延宝4年(1676年)1月8日に死去。享年72。墓所は天城池田家墓所(岡山県倉敷市)。
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参考文献
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