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淀江町
日本の鳥取県西伯郡にあった町 ウィキペディアから
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淀江町(よどえちょう)は、かつて鳥取県の西部に位置した町である。西伯郡に属していた。また役場は大字西原に所在していた。2005年(平成17年)3月31日、米子市と新設合併し(新)米子市となった[1]。なお、合併前の面積は25.74km2、合併前の淀江町の人口は約9,000人余りであった。
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歴史
明治22年(1889年)10月1日、町村制の施行により淀江宿及び西原村の区域をもって、淀江町が発足する。昭和30年(1955年)9月1日、淀江町、宇田川村(うだがわ)、大和村(やまと)及び高麗村(こうれい)の区域の内、今津の区域を分立する上で合併して、改めて淀江町が発足する。(高麗村の区域の内、今津の区域を除く区域及び所子村が合併して、大山町を発足する。)
「水と緑と史跡のまち」のキャッチフレーズのとおり、大山を背景に日本海を眼前に望む自然、そして妻木晩田遺跡、向山古墳群、上淀廃寺跡、国の重要文化財「石馬」など、遺跡、文化財の豊かな地域でもある。
「淀江」の名は縄文時代以来、淀江平野に潟湖が発達し「よどんだ入江」から来ていると言われ、古くは「大山寺縁起」に見られる。中世には海岸線を東西に走る山陰道と、南の日野郡へ向かう交通路の交点で、さらには湊(みなと)としての利用もされたと言われ、西伯耆の要衝として発展した。江戸時代、享保年間以降は特に港町、また藩倉所在地として栄え、幕末には淀江台場も築かれた。明治時代中頃以降、和傘の生産が盛んとなった。
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歴代町長
近代
- 初代 谷尾範吾(1889年11月〜1890年5月)町政の基礎づくり
- 2代 泉頭宇三郎(1891年6月〜1892年3月)淀江大火から復興
- 3代 倉光豊治郎(1892年4月〜1893年6月)道路網・消防施設の整備
- 4代 岩本平太(1893年6月〜1899年5月)学校教育の推進
- 5代 谷野菊太郎(1899年7月〜1903年7月)鉄道整備の推進、伝染病対策
- 6代 倉光豊治郎(再)(1903年7月〜1915年7月)農業・漁業・観光の振興
- 7代 門脇門治(1915年7月〜1923年5月)米価高騰に伴う対策、町史の編纂
- 8代 田山虎次郎(1923年5月〜1937年6月)耕地整備の推進、新庁舎の建設
- 9代 吹野鉄四郎(1937年6月〜1939年8月)淀江港防波堤の修築
- 10代 倉光清六 (1939年9月〜1946年8月)昭和用水の整備
- 11代 野川隆登(1946年8月〜1947年4月)中学校建設の推進
- 12代 安田廣蔵(1947年4月〜1950年5月)中学校の建設
- 13代 石原徹造(1950年9月〜1954年9月)町立保育所・住宅の建設
- 14代 倉光清六(再)(1954年9月〜1955年8月)文化財の保護、町村合併の推進
現代
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出身人物
脚注
関連項目
外部リンク
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