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渡辺明 (美術監督)

日本の美術監督 ウィキペディアから

渡辺明 (美術監督)
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渡辺 明わたなべ あきら[1][2]1908年明治41年〉[3]5月[4][注釈 1]13日[6] - 1999年平成11年〉[2][6]映画美術監督福井県出身[3]。愛称は「ナベさん」。

概要 わたなべ あきら 渡辺 明, 生年月日 ...

来歴

1929年昭和4年)、美術学校を卒業後、松竹下賀茂撮影所に助監督として入社[3]。その後、美術担当となる[2]

1941年(昭和16年)、撮影技師だった円谷英二と知り合い[7][5]グラスワークなどのトリック撮影を円谷とともに研究する[8]。同年、円谷に誘われ東宝に移籍[4][5][注釈 2]

1942年(昭和17年)、映画『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督)で特殊美術を担当[5][2]。特撮用ミニチュア製作など美術全般を担当する。

1947年(昭和22年)、『戦争と平和』(亀井文夫山本薩夫監督)から特殊技術も兼任[8]。「日本映画技術賞」を受賞する[8]

1948年(昭和23年)、円谷英二が東宝を退社。円谷に代わり、特殊技術チーフを務める[8]

1950年(昭和25年)、円谷英二が東宝に復帰。以後、特殊美術チーフとして円谷組特撮班を支える[2]

1954年(昭和29年)、日本初の特撮怪獣映画『ゴジラ』(本多猪四郎監督)で、特殊美術監督を担当[5]。以後、東宝特撮映画の中心スタッフの1人となる[5][2]

1966年(昭和41年)4月1日東宝を退社。円谷特技プロダクション川上景司[注釈 3]らと共に「日本特撮プロダクション」(日本特撮映画株式会社)を設立[3][注釈 4]。東宝以外の各社でも特殊美術を手掛けた[4]

1999年平成11年)、死去。91歳没。

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人物

円谷英二の片腕として1942年から1965年まで、東宝特撮専門の美術監督として活躍。当時助監督を務めていた中野昭慶は、照明の岸田九一郎と並ぶ長老格の双璧であったと述べている[7]。造形助手を務めた鈴木儀雄によれば、渡辺と円谷は「俺」「お前」と呼び合う間柄であったといい、渡辺が円谷にズバズバと意見することも多かったという[9]

ゴジラ」や「キングギドラ」といった人気怪獣の最終デザインは、渡辺が手がけたものである[1][2]。怪獣のデザインについては、「科学性に立脚していなければならない」との考えを持っていた[2]

戦争映画や怪獣映画に使用する、特撮の各種ミニチュアの製作も任じていた。『ゴジラ』で1/25スケールと定めたミニチュアセットは、その後の怪獣映画の基本となった[1]。『ゴジラの逆襲』に登場する自衛隊の兵器車両「ポンポン砲車」も、渡辺のデザイン・造形による。戦車のミニチュアに特にこだわり、キャタピラ一枚一枚を金属鋳造し、エンジンを搭載させて動かすこだわりようだった。中島春雄は「凝り性で、人を乗せて走る戦車を作って喜んでいたが、あれはもうこだわり過ぎてて、今じゃもう出来ない遊びだったね」と語っている[10]

ウルトラマン』では、前代未聞の巨大宇宙ヒーローの初期企画に関わり、ガルーダ神のような有翼の宇宙怪獣「ベムラー」をデザインしている[2]。このデザインはのちに自らが特撮監督として関わった『大巨獣ガッパ』に受け継がれたともされている。

中野は、渡辺についてスケジュールが逼迫していた状況でも慌てることなく常に余裕があったといい、渡辺自身「いくら時間があっても出来ないものは出来ん」というのが口癖であったという[7]。また、「アイデアやイメージは排泄物のようなものでいつでも出せるものではないが、いつかは出てくる」とも述べていたという[7]

また中野は、渡辺は博識で雑学に長じていたといい、喋りだすと機関銃のように止まらなかったと証言している[7]

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担当作品

脚注

参考文献

外部リンク

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