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滝川利錦
日本の江戸時代前期~中期の武士。江戸幕府旗本滝川利貞次男で、旧常陸片野藩主家4代当主。従五位下若狭守・長門守・越前守・隠岐守。常陸片野→近江宮部に陣屋を移した(4000石) ウィキペディアから
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滝川 利錦(たきがわ としかね)は、江戸時代前期の旗本。旧片野藩主滝川家第4代当主。初名は利昌(としまさ)。通称は左兵衛、式部、官位は従五位下、若狭守、長門守、越前守、隠岐守。
生涯
寛永20年(1643年)、旗本滝川利貞の次男として生まれた。母は旧片野藩主滝川正利の娘[1]。承応3年(1654年)、初めて徳川家綱に御目見した[2]。寛文3年(1663年)、譜代大名・旗本の庶子102人が召しだされて小姓組に入番したうちに選ばれて番士となり[3]、寛文5年(1665年)に廩米300俵を与えられた[1]。寛文7年(1667年)、進物番に出役した[1]。
延宝元年(1673年)、長兄利雅が父に先立って早世したため滝川家の嗣子となり、従五位下、若狭守に叙せられた[4]。延宝4年(1676年)、書院番組頭に昇進し[5]、300俵を加増された[6]。延宝5年(1677年)、父利貞死去により常陸国新治郡片野2000石および廩米1000俵を相続し[7]、それまで給されていた廩米600俵を返上した[1]。
延宝7年(1679年)、小姓組の番頭に昇進[8]。天和2年(1682年)、上野国邑楽郡と下野国足利郡に合計で1000石を加増された[1]。貞享4年(1687年)、書院番の番頭に転任[9]。元禄2年(1689年)、徳川綱吉の御側に昇進した[10]。元禄9年(1696年)に辞職、寄合に列した[11]。
元禄10年(1697年)、常陸・上野・下野に散在する知行地3000石と廩米1000俵に替えて近江国の浅井、蒲生、坂田3郡のうちに4000石を与えられ[1]、曽祖父滝川雄利以来の居所片野陣屋を去った[12]。近江国においては陣屋を浅井郡宮部村に設けて代官を派遣し、所領を支配した[13]。利錦以降の滝川家は近江国内4000石の大身旗本として幕末まで続く[14]。
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系譜
参考文献
脚注
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