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狩野周信

江戸時代の絵師 ウィキペディアから

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狩野 周信(かのう ちかのぶ、万治3年7月2日1660年8月7日〉 - 享保13年1月6日1728年2月15日〉は、日本江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師江戸幕府に仕えた御用絵師で、狩野派江戸狩野)の中で最も格式の高い奥絵師4家の1つ・木挽町狩野家の3代目。幼名は生三郎、初名は右近で、如川、泰寓斎と号した。父は狩野常信、母は狩野安信の娘。弟に岑信甫信、子に古信

略伝

狩野常信の長男として生まれる。延宝6年(1678年)19歳の時、4代将軍徳川家綱にお目見え。宝永7年(1710年)10人扶持を受け、正徳3年(1713年)に常信が没したため跡を継いだ。享保4年(1719年法眼に叙せられ、中務卿と称する。『徳川実紀』「有徳院殿御実紀附録」には、「養朴うせぬる後は、其子如川周信を召して、常にとひはからわせ玉ひしが」とあり、常信没後、有徳院・徳川吉宗の絵画指導をしていた。一方、将軍の寵愛は周信に慢心を生んだらしく、湯浅常山が纏めた『文会雑記』には、弟子の長谷川如辰の言葉として「近頃周信が書崩して、埒もなき絵になりたるは、最早我を圧す絵はなきと云ひ誇る心より、大事の戒を忘れて、散々のことになりたると也」といった悪評も伝えられる。享保13年(1728年)69歳で没。墓は池上本門寺平成14年(2002年)に同寺の五重塔が解体・修理された際の周辺整備事業として、周信の墓が発掘調査され、筆箱、香箱、眼鏡、煙管、毛抜き、印籠、刀子、銭貨などの副葬品が確認されている[1]

上記の悪評は事実の一面を表しているらしく、父常信に比べると繊細で筆力が弱く見るべき絵は少ない。弟子に、鳥山石燕理豊女王仙台藩お抱え絵師の荒川周良(如慶)など。

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作品

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脚注

参考文献

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