トップQs
タイムライン
チャット
視点
狩野宗秀
1551-1601, 安土桃山時代の狩野派の絵師。名は元秀、秀(季)信。宗秀(周)は号。 ウィキペディアから
Remove ads
狩野 宗秀(かのう そうしゅう、 天文20年(1551年) - 慶長6年11月頃(1601年))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野松栄の次男で、狩野永徳の弟。名は元秀、秀(季)信。宗秀(周)は号。
経歴
元亀2年(1572年)21歳の時、永徳と共に豊後国の大友宗麟に招かれ障壁画を描く(現存せず)。天正4年(1576年)安土城障壁画制作では、永徳から家屋敷を預けられ[1]、その留守を守った。これは、万が一障壁画制作に失敗し織田信長から不興を買った場合、咎めが狩野派全体に及ぶのを危惧しての保険と見られる。天正10年(1582年)羽柴秀吉が、姫路城殿舎の彩色のために、宗秀を播磨国に招いている(「那須家文書」)。天正18年(1590年)、天正度京都御所造営では永徳を補佐し障壁画製作に参加する。文禄3年(1594年)制作の「遊行上人絵」に「狩野法眼」とあり、この頃には法眼に叙されていたことが分かる。慶長4年(1599年)、桂宮家新御殿造営にあたり甥の光信を補佐し障壁画制作に参加する。慶長6年(1601年)11月頃、光信に息子・甚之丞の後見を依頼しつつ亡くなった[1]。
『本朝画史』では、「画法を専ら兄永徳に学び、よく規矩を守ったが、父兄には及ばなかった」と評している。また、同書収録の「本朝画印」では、「筆法専ら永徳に似て荒らし」とその画風を記している。
Remove ads
作品
Remove ads
ギャラリー
- 織田信長像 長興寺蔵
- 四季花鳥図屏風(左隻)大阪市立美術館蔵
- 四季花鳥図屏風(右隻) 大阪市立美術館蔵
- 柳図屏風(六曲一隻のうち左4扇) 相国寺
- 遊行上人絵 光明寺蔵
親族
脚注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads