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玉腰忠義
日本の野球選手 (1920-1957) ウィキペディアから
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玉腰 忠義(たまごし ただよし、1920年3月15日 - 1957年1月16日)は、愛知県出身のプロ野球選手(外野手)。甥は川合幸三[1]。
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来歴・人物
愛知県商業学校では1937年に第14回選抜中等学校野球大会へ出場。東洋産業を経て、1940年に黒鷲軍へ入団。1943年に応召し、1947年に金星スターズでプロへ復帰。
1949年は阪急ブレーブスへ移籍するが、シーズン中に結核を発病。1950年はチーム事情から病を押して23試合に出場したが、以後療養生活を余儀なくされ、現役を引退。復帰できないまま1957年に死去した。享年36。
バントの名手として知られ、1949年度には14犠打を記録。俊足攻守強打の選手であった。
詳細情報
年度別打撃成績
- 黒鷲(黒鷲軍)は、1942年に大和(大和軍)に球団名を変更
- 太字はリーグ最高
年度別投手成績
背番号
- 34 (1940年 - 1942年)
- 8 (1947年 - 1948年)
- 27 (1949年 - 1950年)
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脚注
関連項目
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