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百済王教俊

平安時代初期の貴族。従五位上・出羽守。子に百済王慶世 ウィキペディアから

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百済王 教俊(くだらのこにきし きょうしゅん)は、平安時代初期の貴族官位従五位上出羽守

概要 凡例百済王教俊, 時代 ...

経歴

従五位下叙爵後、延暦18年(799年下野介に任ぜられる。その後、左衛士佐として京官に遷り、延暦25年(806年美濃守を兼ねている。同年の桓武天皇崩御に伴う平城天皇への代替わりに際しては、桓武天皇の葬儀における作路司や[1]斎内親王を迎えるための伊勢神宮への使者などを務めた[2]

平城朝では鎮守将軍を務めたほか、大同3年(808年)6月には陸奥介を兼ねるなど蝦夷征討に従事した。しかし、教俊は鎮守将軍の官職にありながら鎮守府胆沢城に所在)に詰めずに、遠く離れた陸奥国府多賀城に所在)に常在していたことから、非常事態発生時に適切に対応できないとして、改善すべき旨の勅令を受けている[3]

その後も、大同4年(809年)下野守、弘仁3年(812年)出羽守と、東国の地方官を歴任した。またこの間、時期は不明ながら従五位上に昇叙されている。

官歴

六国史』による。

系譜

脚注

参考文献

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