トップQs
タイムライン
チャット
視点
相本和則
日本のプロ野球選手 (1949-) ウィキペディアから
Remove ads
相本 和則(あいもと かずのり、1949年4月22日[1] - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(内野手)。
Remove ads
来歴・人物
三池工業高校では1965年夏の甲子園でチームの初優勝を経験するが、1年生であり出場はできなかった。高校同期に猿渡寛茂がいる。
高校卒業後は東海大学へ進学。首都大学野球リーグでは在学中に6回優勝。二塁手、一番打者として活躍する。1968年の明治維新百年記念明治神宮野球大会に首都大学野球リーグ代表として出場。決勝ではエース上田二郎が東京六大学野球リーグ代表の星野仙一らと投げ合い完封勝利、優勝を果たす。1969年の第18回全日本大学野球選手権大会でも決勝に進み、上田が日大の佐藤道郎と互いに無失点で投げ合う。9回表に谷口剛の決勝本塁打により3-0で快勝、初優勝を遂げた。翌1970年の第1回明治神宮野球大会は、大学同期の川端理史の好投もあって、決勝で中京大の榎本直樹を打ち崩し優勝を飾る。リーグ戦通算77試合出場、276打数81安打、打率.293、9本塁打、36打点。ベストナイン3回(二塁手)受賞。
大学卒業後は、社会人野球のキャタピラー三菱へ入社[1]。1972年の東京スポニチ大会に遊撃手として出場。1回戦で王子製紙苫小牧から本塁打を放つなど活躍し注目される[2]。
同年のプロ野球ドラフト会議で東映フライヤーズから3位指名を受け入団、猿渡とチームメートになる。強肩の遊撃手として期待され、1年目の1973年から開幕一軍に抜擢される。しかし、序盤は先発出場を続けるが故障もあって失速。その後も故障に祟られ、1976年限りで現役を引退した。
Remove ads
詳細情報
年度別打撃成績
- 日拓(日拓ホームフライヤーズ)は、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
記録
背番号
- 36 (1973年)
- 8 (1974年)
- 40 (1975年 - 1976年)
Remove ads
脚注
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads