トップQs
タイムライン
チャット
視点
真済
平安時代前期の真言宗の僧。空海の十大弟子の一人。『性霊集』編。東寺一長者。若狭国司。大和松永氏の祖。 ウィキペディアから
Remove ads
真済(しんぜい、延暦19年(800年) - 貞観2年2月25日(860年3月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。父は巡察弾正紀御園。[1] 空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた『性霊集』を編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される。
生涯
- 幼少時は学問・文筆の道に励む。紀氏一門は奈良時代の紀清人、平安時代前期の紀長谷雄など著名な学者、文人を輩出している。
- 弘仁5年(814年)、15歳のとき出家して空海の弟子となる。
- 天長元年(824年)、25歳のとき両部大法を受け伝法阿闍梨となる。空海に才能を見込まれての、異例の若さでの受法、灌頂であり、当時の人々を驚かせたといわれる。[2]
- 天長元年~承和2年(835年)、高雄山寺(神護寺)に篭り12ヶ年修行する。ただし、通説では承和3年からとされている。[3]
- 天長3年(826年)11月から翌年5月までと天長7年(830年)11月~9年(832年)3月、一説に空海から種々の密教の奥義を伝授される。それを真済自ら記録したものが『高雄口訣』だといわれる。
- 天長9年11月、一説にこのとき空海から高雄山を託される。
- 承和2年ころ、嵯峨天皇(上皇)が12年篭山の苦行を評価して内供奉十禅師に抜擢する。ただし、通説では承和7年。[4]
- 承和2年ころまでに『性霊集』を編纂する。[5]序文によれば、自らが空海に侍して書き取るなどして集めた詩文に、空海が在唐中にやりとりしたものを加え、取捨選択して10巻にまとめた。
- 承和3年(836年)、入唐請益僧として遣唐使船に乗り唐を目指す。同門で留学僧の真然も同船。ところが、嵐で船が難破し、筏に移り23日間漂流。30余人の同乗者はみな餓死して、真済と真然だけが奇跡的に生き残り、南海の島(具体的な場所は不明)民に救助された。帰朝後は神護寺の経営に尽力。このころ多宝塔建立、五大虚空蔵菩薩像造立を仁明天皇に表請し認められる。
- 承和4年(837年)7月、嵯峨上皇の皇子、源鎮が出家して神護寺に入り真済の弟子となる(一説に白雲禅師と号す)。
- 承和7年(840年)12月、実恵に代わり神護寺別当に任ぜられる。
- 承和10年(843年)11月、権律師に任ぜられる。また、東寺二長者となる(二長者の初め)。
- 承和14年(847年)4月、律師に任ぜられる。11月、実恵の後を継ぎ東寺一長者となる。
- 仁寿元年(851年)7月、少僧都に任ぜられる。文徳天皇の厚い信任を受け急速に昇進。
- 仁寿3年(853年)4月、真言宗年分度者を新たに3人加え6人とすることを認められる。増加分3人は神護寺で得度。
- 仁寿3年10月、権大僧都に任ぜられる。
- 斉衡3年(856年)10月、僧正に任ぜられるも、師空海に僧正位を譲ることを上表して辞退。以後、三度にわたり任命と辞退を繰り返す。
- 天安元年(857年)10月、文徳天皇、真済の師を思う心に感激し、空海に大僧正位を追贈し、真済を僧正とする。
- 天安2年(858年)8月23日、文徳天皇が突然病に倒れる。真済の看病も空しく、27日、32歳で崩御。天皇の急死で世論の激しい批判を浴び隠居する。
- 貞観2年(860年)2月25日、没。享年61。
Remove ads
弟子
元慶2年(878年)11月11日の真雅言上状[6]によれば、真済の付法弟子は一人もいない。真済の地位からすれば極めて不自然で、文徳天皇の急死に際し激しい批判を浴び隠居したこととの関連が疑われる。 なお、真済と師弟関係にあったことが史料に見える者が数名ある。
伝説
- 恵亮との験争い
- 文徳天皇の第一皇子・惟喬親王と第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)の皇位継承争いにからんで、惟喬側の真済と惟仁側の天台宗恵亮が験力を競い、真済が敗れたため惟仁が皇太子となったというもの。『平家物語』巻八には相撲、『曽我物語』巻一には競馬で争う話が載っている。なお『江談抄』巻二は、同門の真雅が惟仁親王の護持僧で、真済と不仲だったと伝えており、こちらは信憑性がある。
- 情欲に惑い天狗・鬼と化す
- 文徳天皇の女御で清和天皇の母である藤原明子 (染殿后)に一目惚れした真済が、死後、紺青色をした鬼、あるいは天狗と化して彼女のもとに現れ悩ませる。そして比叡山無動寺の相応和尚に退治されるという話。延喜18年(918年)~23年の間に書かれたとされる『天台南山無動寺建立和尚伝』をはじめ、『拾遺往生伝』巻下の相応伝、『古事談』巻三、『宝物集』巻二などに載っている。なお、類似の説話に『今昔物語集』巻二十、第七話「染殿ノ后、為天宮嬈乱事」があるが、この話では紺青鬼(表題は「天宮=てんぐ」だが本文では鬼)と化すのは真済でなく大和葛木の金剛山の聖人で、相応和尚による退治もなく、后は衆人環視の中、鬼と情交に及ぶに至り、天皇もなすすべがなかったという絶望的結末となっている。この真済や相応和尚が登場しない形の説話の出典は、延喜17年~18年ころ三善清行が書いた『善家秘記』(散逸)とされる。[7]時期的に相応和尚の伝記成立とほぼ同じだが、おそらくは、『今昔』型の説話が先にあって、それを相応和尚の伝記に素材として取り込んだ際、天台宗対真言宗という構図が持ち込まれ、真済が紺青鬼・天狗にされたのであろう。
- カササギ・小人の姿で現れる
- 天台僧玄昭が宇多法皇の亭子院で修法を行っていたところ、真済の霊がカササギの姿で現れる。玄昭はカササギを護摩壇の火で焼くが、その後、真済の霊は小人の法師の姿で玄昭のもとに現れるようになり、玄昭を恐怖に陥れる。だが、玄昭の弟子浄蔵によって真済の霊は調伏される。『扶桑略記』巻二十三、延喜17年2月3日の項に玄昭在世中のこととして載っている。また、同じ話が『拾遺往生伝』巻中の浄蔵伝にもある。
- 東北巡錫、入定
補注
参考文献
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads