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磯崎新

日本の建築家 (1931-2022) ウィキペディアから

磯崎新
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磯崎 新(いそざき あらた、1931年昭和6年)7月23日 - 2022年令和4年)12月28日)は、日本建築家一級建築士アトリエ建築家日本芸術院会員。

概要 磯崎新, 生誕 ...
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1976年撮影

大分県大分市出身。父は実業家俳人磯崎藻二。妻は彫刻家宮脇愛子茨城つくばセンタービル米国ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した。

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経歴

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1996年撮影
  • 2017年 - 日本芸術院会員に選出。
  • 2020年 - 同済大学建築都市計画学院名誉教授。
  • 2022年12月28日 - 老衰のため那覇市の自宅で死去。91歳没[3]
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受賞等

評価

CIAM以降、さまざまな現象へ分裂解体しつつあった世界の建築状況を整理し、改めて総合的な文化状況の中に位置づけ直し、全体的な見通しと批評言語を編纂した役割において、磯崎はポストモダン建築を牽引した建築家の一人であると言われる。特に日本では丹下健三以降の世代にとって、1970年以降の建築言説の展開の大凡は磯崎によって編成されてきたと見なされている。

一方で磯崎の活動がつねに批評的な活動を伴っていた事実は、建築家としての磯崎新自身の建築設計や都市計画といった実務的な仕事を、建築史上の特定の動向、様式に位置づけることを著しく困難にさせてきた。ちなみに、様式や形式それ自体も、批評的に選択されていると彼自身が表明している。

そもそも磯崎の出発点は大分市の「新世紀群」という絵画サークルの活動から始まった。そこは後にネオ・ダダで活躍した吉村益信赤瀬川原平風倉匠らも在籍した前衛的土壌であった(なお赤瀬川原平の兄の赤瀬川隼(直木賞作家)とは、旧制中学の同級生)。また磯崎が1960年に丹下健三の東京計画1960に加わっていた頃、ネオ・ダダは新宿百人町の吉村アトリエ(通称ホワイトハウス:磯崎による設計)を拠点に反芸術的活動を展開しており、磯崎もたびたびそこを訪れていた。この時点において磯崎はネオ・ダダ的建築家として最も過激な思想の基に模索していた。

1980年代以降はロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など日本国外で活躍している。閉塞的な日本のアカデミズムを脱却し、世界的な次元で建築を構想する姿勢は、日本国内では批判に晒されるが、日本の現代建築を世界的なレベルに押し上げた建築家の一人である。古典的なプロポーションの均整を避けるため敢えてキューブのようなプラトン立体を多用することで知られている。

現在は活動の場を海外、とりわけ中国と中東、ヨーロッパなどに移している。そこでは、かつて自身が行ったさまざまな実験やアンビルトとなった建築計画などのレファレンス、構造家とのコラボレーションによる進化論的構造最適化手法などを採用し、オーガニックな形態で特異な空間を現出させようとしている。

その他

  • メタボリズムについて、「一九六二年頃の私の思考を整理してみると、私はメタボリズムと明瞭に逢遇している」と書いている( http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/888/ 最終段落)
  • 読売新聞で、バブル期の東京都公共建築である東京芸術劇場東京都庁舎江戸東京博物館東京都現代美術館東京国際フォーラムの5作品を「粗大ゴミ」と評した。ただ、これは建築家のデザイン力だけではなく、東京都が建築家に要求したプログラムに対する発言とされる[6]
  • コンペの審査員も多数務め、長谷川逸子湘南台文化センターや、伊東豊雄せんだいメディアテークの際の審査員でもある。プリツカー賞の審査員も務めた。
  • 丹下健三を最もよく知る一人で、2005年の葬儀において弔辞を読んだ。
  • 若い頃に影響を受けたのはチェ・ゲバラ毛沢東[7][8]
  • 作家の沢木耕太郎と親交があり、沢木の紀行文『深夜特急』にも登場する[9]
  • 建築模型を数多く制作している建築家としても知られている。1990年代にロサンゼルス現代美術館を皮切りに、国内(群馬県立近代美術館、水戸芸術館、北九州市立美術館、ハラミュージアム・アーク等)国外(スペイン、ギリシア、イギリスなど)をサーキットした大回顧展が行われ注目を集めた。現在それらの模型や資料は大分市のアートプラザ(磯崎新建築記念館、磯崎設計の旧大分県立大分図書館)に収蔵され、3階の磯崎新建築展示室で順次公開されており、磯崎建築を知る上で最も重要な拠点となっている。
  • 祖父の磯崎徳三郎は大分市議会議長も務めた米問屋で、その米倉庫は三浦義一林房雄が子供の頃遊び場としており、その縁で三浦義一の寄付により建設された旧大分県立大分図書館の設計者に指名された。
  • 東京大学2年時に父を亡くしたため、渡辺一夫の本郷真砂町の自宅に住み込み、渡辺の息子に数学を教えた。英語を教えていたのは高橋康也
  • 父の磯崎操次(1901-1951)は大分貨物自動車会社を経営する実業家であり、俳名を磯崎藻二として吉岡禅寺洞が福岡で1918年に創刊した新興俳句派の俳誌「天の川」同人であった俳人。
  • 韓国近代建築の巨匠・金壽根(1931-1986)は東京大学大学院時代に隣の研究室に所属しており、友人。
  • 関西大学名誉教授の古後楠徳は磯崎を数学好きにさせ、「"代数"はダメだ。"幾何学"に進め」とアドバイスし、結果的に建築学科へ導いた高校時代の恩師である。
  • 新建築住宅設計競技など審査員を歴任。1975年の「新建築住宅設計競技」では、「わがスーパースターたちのいえ」という課題を出し、1~3位の入賞者すべてを外国人にしたことで主催者を驚かせたが、賞金の一部は日本人に行くようにするという規定があったため、選外佳作という賞を急遽設け、日本人応募者に受賞させた[10]。1位は当時AAスクール在学中のトム・ヘネガンで、ハリウッドスターたちの家の写真にただ×(No!)が描かれただけのもので、2位、3位も同様にコンセプチュアルなものだった。磯崎は審査評として、新建築の12月号に「日本の建築教育の惨状を想う 」を発表し、建築界を騒がせた。
  • 静岡県コンベンションアーツセンターの完成から5年後の2004年にスレート製の外壁が落下してから、5年間に合計40回の剥落落下が相次ぎ、その責任を巡って問題となっている[11][12]。一時は、磯崎への賠償請求も検討された。落下対策には8億~14億円を要すると試算されている[13]
  • 2014年、国際コンペで選ばれた新国立競技場案に対しての議論が巻き起こったおり、「新国立競技場 ザハ・ハディド案の取り扱いについて」を発表し、改めてデザインをザハに任せるべきだと主張した[14]
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作品

要約
視点

建築作品

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都市構想

  • 新宿計画(淀橋浄水場跡地開発計画)孵化過程・空中都市(1960年)
  • 丸の内計画・空中都市(1963年)
  • スコピエ・ユーゴスラビア都市再建計画設計競技に参画(1965年)
  • 応答場としての環境計画(1969年)
  • コンピューター・エイデッド・シティ(計画)(1972年)
  • 珠海/海市計画(計画案)(1995年) - 1997年、東京にて「「海市」-もうひとつのユートピア」と題した展覧会が開催された。その後、海外へと巡回。

展覧会

著作・作品集

  • 「空間へ」美術出版社、1971年
  • 「建築の解体」美術出版社、1975年
  • 「建築の修辞」美術出版社、1979年
  • 「手法が」美術出版社、1979年
  • 「建築の地層」彰国社、1979年
  • 磯崎新著作集」全4巻、美術出版社、1984
  • 「現代の建築家 磯崎新2」鹿島出版会、1984年
  • 週刊本 ポスト・モダン原論」朝日出版社、1985年
  • 「いま、見えない都市」大和書房、1985年
  • 「バルセロナ・ドローイング バルセロナ・オリンピック建築素描集」岩波書店、1990年
  • 「見立ての手法 日本的空間の読解」鹿島出版会、1990年
  • 「イメージゲーム-異文化との遭遇」鹿島出版会、1990年
  • 「<建築>という形式 1 」新建築社、1991年
  • 「磯崎新の建築30 模型、版画、ドローイング」六耀社、1992年
  • 「現代の建築家 磯崎新3-4」鹿島出版会、1993年
  • 「始源のもどき-ジャパネスキゼーション」鹿島出版会、1996年
  • 「磯崎新の仕事術 建築家の発想チャンネ」王国社、1996年
  • 「造物主議論-デミウルゴモルフィスム」鹿島出版会、1996年
  • 「建築家捜し」岩波書店、1996年/岩波現代文庫、2005年
  • 「空間へ 根源へと遡行する思考」鹿島出版会、1997年/河出文庫、2017年
  • 「オペラシティの彼方に エッジを測量する17の対話」NTT出版、1997年
  • 「磯崎新の発想法 建築家の創作の秘密」王国社、1998年
  • 「栖十二」住まいの図書館出版局・星雲社、1999年
  • 「人体の影-アントロポモルフィスム」鹿島出版会、2000年
  • 「建築家のおくりもの」王国社、2000年
  • 「ル・コルビュジエとはだれか」王国社、2000年
  • 「神の似姿-テオモルフィスム」鹿島出版会、2001年
  • 「反回想 1」A.D.A.EDITA Tokyo、2001年
  • 「反建築史/UNBUILT」TOTO出版、2001年
  • 「磯崎新の建築談議」全12巻、六耀社、2001-04年
  • 「建築における「日本的なもの」」新潮社、2003年
  • 「アントニ・ガウディとはだれか」王国社、2004年
  • 「磯崎新の思考力 建築家はどこに立っているか」王国社、2005年
  • Japan-ness in Architecture, MIT Press, 2006
  • Arata Isozaki, ed. by Arata Isozaki and Ken Tadashi Oshima, London, Phaidon, 2009
  • 「日本の建築遺産12選 語りなおし日本建築史」新潮社、2011年
  • 「気になるガウディ」新潮社、2012年
  • 磯崎新建築論集」全8巻、岩波書店、2013-15年
  • 『挽歌集 建築があった時代へ』白水社、2014年
  • 『偶有性操縦法(コンティンジェンシーマニュアル) 何が新国立競技場問題を迷走させたのか』青土社、2016年
  • 『瓦礫の未来』青土社、2019年
  • 『デミウルゴス: 途上の建築』青土社、2023年

共著など

  • 「建築および建築外的思考 磯崎新対談」鹿島出版会、1976年
  • 「現代の建築家 磯崎新」鹿島出版会、1977年
  • 「建築の1930年代-系譜と脈絡 磯崎新対談」鹿島出版会、1978年
  • 「磯崎新+篠山紀信建築行脚1~12」六耀社、1980-92年 
  • 「建築のパフォーマンス <つくばセンタービル>論争」、編著、PARCO出版局、1985年
  • 「ポスト・モダンの時代と建築 磯崎新対談」鹿島出版会、1985年
  • 「建築の政治学 磯崎新対談集」岩波書店、1989年
  • 「磯崎新作品集」第1巻、二川幸夫編、A.D.A.EDITA Tokyo、1991年
  • 「世紀末の思想と建築」、多木浩二共著、岩波書店、1991年
  • 「Anywhere 空間の諸問題」、浅田彰共編、NTT出版、1994年
  • 「Anyway 方法の諸問題」、浅田彰共編、NTT出版、1995年
  • 「季刊ja no.12 磯崎新」新建築社、1994年
  • 「建物が残った-近代建築の保存と転生」岩波書店、1998年
  • 「建築と時間 対論 土居義岳、岩波書店、2001年
  • 「空間の行間」福田和也共著、筑摩書房、2004年
  • 「Any-建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008」、浅田彰共編、鹿島出版会、2010年
  • 「ビルディングの終わり、アーキテクチュアの始まり 10 years after any 」、浅田彰共著、鹿島出版会、2010年
  • 「磯崎新の建築・美術をめぐる10の事件簿」新保淳乃・阿部真弓共著、TOTO出版、2010年
  • 『磯崎新インタヴューズ』聞き手日埜直彦、LIXIL出版 2014
  • 『日本建築思想史』聞き手横手義洋、太田出版 atプラス叢書 2015
  • 『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』藤森照信共著 六耀社 2015
  • 『磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義』藤森照信共著 六耀社 2016
  • 『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』藤森照信共著 六耀社 2017

翻訳

審査員を務めたコンペ・コーディネートを務めたプロジェクト

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脚注

文献

磯崎新アトリエ出身の人物

関連項目・人物

外部リンク

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