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秋山和慶

日本の指揮者 (1941–2025) ウィキペディアから

秋山和慶
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秋山 和慶(あきやま かずよし、1941年昭和16年〉1月2日[2] - 2025年令和7年〉1月26日)は、日本指揮者東京交響楽団桂冠指揮者、バンクーバー交響楽団桂冠指揮者、広島交響楽団永久桂冠名誉指揮者。日本指揮者協会5代目会長。Osaka Shion Wind Orchestra芸術顧問。洗足学園音楽大学芸術監督・特別教授。

概要 秋山 和慶, 基本情報 ...

人物・来歴

要約
視点

生い立ちから桐朋学園大学卒業まで

商社に勤める父・友一の長男として東京都品川区荏原で出生[3]。母・美弥子は宮崎県生まれ、東京音楽学校師範科出身のピアニストであった[4]。父が学んだ青山学院に入学し青山学院初等部青山学院中等部桐朋女子高等学校音楽科[注 1]を経て、桐朋学園大学音楽学部卒業[5][6]

指揮法を齋藤秀雄、ピアノを井口秋子、ホルンを千葉馨、打楽器を岩城宏之に師事[7]。「齋藤メソッド」(指揮法)の継承者であり、小澤征爾山本直純らと共に齋藤秀雄の門下生。齋藤の下で厳しい指導を受ける。

指揮者デビューと海外での演奏活動

1964年東京交響楽団を指揮してデビュー[5]大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者、カナダトロント交響楽団副指揮者を経て、1972年から1985年までバンクーバー交響楽団音楽監督(現桂冠指揮者)[2]1973年から1978年までアメリカ交響楽団音楽監督[2][8]1985年から1993年までシラキュース交響楽団音楽監督[2](現名誉指揮者[3])を務める。

クリーヴランド管弦楽団ニューヨーク・フィルハーモニックシカゴ交響楽団フィラデルフィア管弦楽団ボストン交響楽団ロサンジェルス・フィルハーモニックサンフランシスコ交響楽団ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団ケルン放送交響楽団ハンブルク北ドイツ放送交響楽団スイス・ロマンド管弦楽団チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団など、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどのオーケストラに多数客演[5][9]

日本での演奏活動

1963年から東京交響楽団専属指揮者[3]1968年から2004年まで同楽団音楽監督・常任指揮者[2]として40年間にわたり東京交響楽団の指揮者を務め、2004年からは桂冠指揮者[10]1967年から大阪フィルハーモニー交響楽団指揮者、1986年から1994年まで同楽団首席指揮者[3]1988年から1998年まで札幌交響楽団ミュージック・アドバイザー・首席指揮者[11]1998年から広島交響楽団首席指揮者・ミュージックアドバイザー、2004年から2017年まで同楽団音楽監督・常任指揮者[3](現永久桂冠名誉指揮者)。2004年から2013年まで九州交響楽団ミュージックアドバイザー・首席指揮者(現桂冠指揮者)[3]を務めた。NHK交響楽団での指揮も多い[12]

2010年から中部フィルハーモニー交響楽団芸術監督・首席指揮者[3][13]2020年から日本センチュリー交響楽団ミュージックアドバイザー[14][15]2022年から岡山フィルハーモニック管弦楽団ミュージックアドバイザー[16]を務める。
吹奏楽にも造詣が深く、2003年からOsaka Shion Wind Orchestra芸術顧問を務めている[3][17]

2014年に指揮者生活50年を迎え、回想録「ところで、きょう指揮したのは?」 (共著/アルテスパブリッシング刊)を翌2015年に出版[5]
2024年には指揮者生活60年を迎え、記念公演(東京交響楽団第724回定期演奏会)を指揮する[18][19]

2025年1月23日、指揮活動からの引退が所属事務所を通じて家族より発表された[20][21]。1月1日に自宅で転倒して頚椎を損傷[20][21]、当初は8月に復帰予定だった[20]が手足に後遺症が残り、家族と話し合った結果、今後の活動は困難と判断し引退を決めたという[20][21]

斎藤メソッド

1984年には、恩師・斎藤秀雄を偲んで小澤征爾と共に「斎藤秀雄メモリアルコンサート」を開催。このコンサートがサイトウ・キネン・オーケストラの発足につながる[22]

1969年に洗足学園大学(現:洗足学園音楽大学)音楽学部客員教授、1989年に同大学専任教授 兼 附属指揮研究所長に就任。2011年に洗足学園音楽大学特別教授 兼 芸術監督[23]に就任。斎藤メソッドの後進指導にもあたっており、指揮法やオーケストラについて解説したDVDにも出演している(ビクター・エンタテインメント)。

2012年6月より日本指揮者協会第5代会長[24]を務める。

死去

2025年1月26日午後10時57分、肺炎のため入院先の病院で死去[1][25]84歳没。没後、東京交響楽団や広島交響楽団など関係の深かった楽団から、追悼のコメントが公式サイトより発表された[26][27][28]

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受賞・栄典

エピソード

東京交響楽団との長年にわたる関係(楽団の経営破綻から再建・復活と挑戦)

  • 東京交響楽団でデビューしたわずか1カ月半後に楽団の解散が発表され、団員たちと自主運営で活動を再開、毎日が練習、本番のきついスケジュールをこなした[32](1カ月に32回公演したこともあったという[33])。
  • 東響に出演機会を与えるためにスタートした音楽番組「題名のない音楽会」に数多く出演した[34]
  • 東響が1980年に再建を果たした後、シェーンベルクの「グレの歌」、歌劇「モーゼとアロン」などの大作を指揮、ラッヘンマンの歌劇「マッチ売りの少女」などの日本初演を行い成功を収めた[35]
  • 東響との共演は、生涯最後の公演となる2024年12月31日の「MUZAジルベスターコンサート2024」[1][26]まで1350回以上に及んだ[26]

バンクーバー交響楽団桂冠指揮者、広島交響楽団終身名誉指揮者として

  • バンクーバー交響楽団音楽監督就任後、その地がすっかり気に入り、バンクーバーに本宅を構え暮らしている[36]
  • 本人は、これまで関わった数多くのオケの中で、東京交響楽団、バンクーバー交響楽団とともに広島交響楽団が、思い出が多く愛着が強い楽団だと語っている[37]

鉄道マニア

  • 鉄道マニアとしても有名であり[38]1990年岐阜県樽見鉄道に、蒸気機関車による「オーケストラ列車」を走らせ、沿線の公園で野外公演を実現したこともあるほどである[39]
  • 鉄道模型の収集家でもあり、鉄板を切って自作するほどの腕前。バンクーバーの自宅には、模型の他、鉄道グッズのコレクションを集めた一室がある[39][40]
  • 中学までは青山学院に在学。同期に作曲家の筒美京平がいた。小学生の頃、電車での通学時に、あまりに熱心に運転室を覗き込んでいたため、運転士が中に入れ実際に運転をさせてくれたという、古き良き時代ならではのエピソードもある[39]

外部リンク

脚注

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