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秋月種茂
日本の江戸時代中期~後期の大名。日向高鍋藩6代藩主秋月種美長男で、高鍋藩7代藩主(秋月氏23代当主)。従五位下山城守・佐渡守。高鍋藩の全盛期を築いた名君で知られる ウィキペディアから
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秋月 種茂(あきづき たねしげ)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。日向国高鍋藩7代藩主で、藩の全盛期を築いた名君とされている。剃髪後の号は鶴山。その弟に、世界に名君と知られる上杉鷹山がいる。鷹山も、兄の実力は自分以上であると評価している。
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生涯
寛保3年(1744年)、6代藩主・秋月種美の長男として誕生した。宝暦6年(1756年)11月15日、9代将軍・徳川家重に御目見する。宝暦7年12月18日(西暦で1758年)、従五位下・山城守に叙任する。宝暦10年(1760年)7月8日、種美の隠居により家督を継ぐ。宝暦11年(1761年)4月18日、初めてお国入りする許可を得る。
藩主になると藩政改革に臨んだ。改革に必要なものは人材登用であると考え、安永7年(1778年)に藩校明倫堂を創設し「教育の高鍋藩」の基礎を築いた。このとき、種茂は藩校に通える者を武士だけに限らず、民百姓に対しても開いた。この明倫堂からは、明治時代に活躍する多くの人材(三好退蔵、秋月左都夫、石井十次)が出ている。また、大坂から優秀な産婆を呼び寄せ、安全な出産方法を藩内に普及させるとともに、日本で初めて子供手当を支給する[1]など、現代でいう児童福祉にも心を配り、財政再建政策も行った。
名君として名をはせた弟の上杉鷹山は、「兄は僻遠の藩主ゆえ名を知られていないが、もし兄が(私に替わって)米沢の藩主になっていたなら、米沢は今よりもずっと繁栄していただろう」と種茂の政治手腕を高く評価している。天明8年(1788年)11月6日、家督を長男の種徳に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。
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系譜
父母
正室
- 盈子 ー 松平明矩の娘
子女
脚注
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