トップQs
タイムライン
チャット
視点
秋田県民歌
1930年に制定された秋田県の県民歌 ウィキペディアから
Remove ads
「秋田県民歌」(あきたけんみんか)は、日本の都道府県の一つで、秋田県が2曲制定している県民歌の1曲。1930年(昭和5年)制定。作詞・倉田政嗣、補作詞・高野辰之、作曲・成田為三。
解説
教育勅語渙発40周年を記念して県が歌詞を公募し、1930年に制定された。同県仙北郡横沢村(現・大仙市)出身の倉田政嗣の歌詞に東京音楽学校教授の高野辰之が補作を加え、「浜辺の歌」などで知られる同県北秋田郡森吉町(現・北秋田市)出身の成田為三が作曲した。
山形県民歌「最上川」、長野県歌「信濃の国」と並ぶ「三大県民歌」の1曲と称されることもある[1]。戦後は1959年(昭和34年)に制定されたもう1曲の「県民の歌」に取って代わられていたが、後年の再評価を経て2曲が正式な県民歌として並立するようになった[2]。
戦後に制定された都道府県民歌の多くに見られる行進曲調の楽曲とは異なり、荘重な旋律と文語調の歌詞が特徴的である[2]。歌詞は4番まであり、田沢湖や鳥海山などに代表される自然(1番)、森林や田畑、また地下に埋蔵された豊かな資源(2番)、秋田県出身の平田篤胤・佐藤信淵、戊辰戦争などの歴史(3番)、優れた民俗性への歓喜を込めた県民の心意気(4番)を歌い上げる。
秋田県の公的な式典で斉唱されるほか、県庁舎では終業時刻を知らせる庁内放送のBGMに本曲を使用している[3]。サッカー・J2のブラウブリッツ秋田やバスケットボール・Bリーグの秋田ノーザンハピネッツの試合開始前などでも斉唱される[1][4]。
歌唱
最初のレコード吹き込みは1937年(昭和12年)に秋田県庁の発注で県内の市役所や町村役場に配られた日本ポリドール製造のプライベート盤(規格品番:PA-1005)で、秋田市出身の東海林太郎と北秋田郡大館町(現・大館市)出身の上原敏による男声デュオが起用された。
石井歓作曲の吹奏楽と混声合唱による『大いなる秋田』の第3楽章では1、2番が混声4部合唱として挿入されている。また、毎年8月に大仙市で開かれる全国花火競技大会(大曲の花火)のフィナーレで、同市出身のシンガーソングライター、津雲優が歌う『いざないの街』の後半で、本曲の歌詞の一部が挿入されている[5]。
2015年(平成27年)にZetimaから発売された因幡晃(大館市出身)のアルバム『ことづて』では、ボーナス・トラックとして独唱が収録されているが[6]、後述の経緯により3番を省略した1・2・4番の短縮バージョンとなっている。
Remove ads
歴史
要約
視点
制定に至る経緯
教育勅語渙発40周年の記念事業の一環として、秋田県は1930年(昭和5年)8月15日付の県報において、県民歌歌詞の公募を告示した[7]。募集要項では、県民の意識を高揚させ、郷土の風物を十分に歌い上げることが求められていたが[7]、当時は国民精神総動員計画の下、市町村に教化活動を求める政策が打ち出されており、県民歌の制定もその一環とされ、郷土教育の推進と郷土意識の向上が目的にあった[8][9]。募集期間は同年9月10日までで、41名からの応募があった[10]。選考結果は同年10月10日付の県報にて発表され、一等については該当無し、二等に南秋田郡土崎港町の高橋朗生、三等に由利郡平沢公民学校の佐藤徳十郎、仙北郡横沢村の倉田政嗣、佳作に北秋田郡の花岡尋常高等小学校、仙北郡横沢村の鈴木正之の作品が選出された[11]。県はこれら5編を選び、補作および作曲を東京音楽学校に依頼した。同校では倉田政嗣の歌詞が教授・高野辰之によって補作され、卒業生で秋田県出身の成田為三が作曲を担当した[11][12]。なお、成田と倉田は秋田師範学校の同級生であった[13][3]。
県民歌の制定後は、県内の小中学校や各種団体に楽譜が配布され、集会のたびに斉唱するように要請された[11]。県民歌の発表は、10月30日午後1時20分より秋田県記念会館において挙行された教育勅語渙発40周年記念式典にて行われた[14]。式典では松岡学務部長の挙式の辞、君が代奉唱、稗方弘毅秋田県知事の勅語奉読及び式辞朗読、県民歌合唱、万歳三唱の順に行われ、午後1時50分に閉会した[15]。出席者は、稗方知事、井上広居秋田市長のほか師範学校生を含めて約300名であった[14]。
衰微と復権
秋田県民歌は、歌詞自体に露骨な国家主義的表現は見られなかったものの、国家主義的な社会情勢下で制定された歌だったことや、経済成長期を迎えた社会の空気も相まって、戦後になると否定的に取り扱われるようになった[16]。そのような情勢下で、1959年(昭和34年)には新たな県民歌として「県民の歌」が制定され、既存の秋田県民歌が歌われる機会は減少した[17]。当時は八郎潟の干拓事業や新たな県庁舎の完成、さらに1961年(昭和36年)の秋田まごころ国体開催など、大型事業が相次いだ県勢を背景に県旗・県章とともに新しい県民歌が制定された[17]。秋田県民歌と区別するため、県民の歌と題されてたものの、県内の小中学校や行事では県民の歌が歌われるようになり、県民手帳などでも秋田県民歌は掲載されなくなった[17]。1960年代から70年代に刊行された都道府県歌を集めた書物においても、秋田県の項では県民の歌のみが掲載され、制定の由来を説明する部分でも従来の秋田県民歌については全く記載がない状態が続いた[16]。
このような状況に対し、秋田県における音楽教育の第一人者で、当時秋田大学教育学部教授だった小野崎晋三は、県広報誌「あきた」の昭和39年1月号に「秋田県民歌の復活を提唱する」という題の随想で、旋律や伴奏の優雅さ、作曲技法に優れた名曲であることなどを挙げ、秋田県民歌の復活を望む旨の内容を投稿した。また、問題点があるとすれば第3節や全体的な歌詞表現の古めかしさであると述べ、その場合には改作すればよいとも提言していた[18][19]。
秋田県民歌の認知度が再び高まり、現在のように歌われるようになったのは、明治百年記念事業の一環として1968年(昭和43年)に制作された楽曲「大いなる秋田」に秋田県民歌が組み込まれたことが契機となった[19]。大いなる秋田は、秋田県が作曲家・石井歓に依頼して制作した合唱(混声4部)と吹奏楽のための楽曲で、全四楽章から構成される[19]。その中で、第三楽章には秋田県民歌が、第四楽章には県民の歌が挿入された[19]。その1年間に限らず、その後も「大いなる秋田」は演奏され、県内各地の学校などへ働きかけが進められたことなどから、秋田県民歌は徐々に再評価され、以降、県内で再び歌われる機会が増えていった[20]。1980年(昭和55年)には、成田為三の生まれである北秋田郡森吉町(現・北秋田市)にて「成田為三顕彰の集い」が開催され、成田の墓前で追悼式を執り行った後、森吉町や大館市の小中学生、米内沢小学校PTA会員らで秋田県民歌を合唱した[21]。この行事には当時の佐々木喜久治秋田県知事も出席しており、この翌年から県民手帳に「県民の歌」と並んで「秋田県民歌」が掲載されるようになった[22][21]。
Remove ads
歌詞
本曲は歌詞・旋律とも著作権の保護期間を満了し、1998年(平成10年)1月1日よりパブリックドメインとなっている。
現在は3番と4番を省略し、2番までを歌うのが通例になっている。3番は秋田県の直接の前身である久保田藩が、戊辰戦争時に四面楚歌の状況下で錦旗を守り、苦戦の末に奥羽越列藩同盟に勝利したことを称えているが、県内には列藩同盟に与して新政府から「朝敵」とされた亀田藩や盛岡藩の所領だった地域も含まれているためとされる。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads