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因幡晃
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因幡 晃(いなば あきら、1954年〈昭和29年〉3月18日 - )は、日本のシンガーソングライター。アップフロントクリエイト所属。
人物
秋田県大館市花岡町出身[1][2]。父親は鉱山技師[3]。秋田県立大館工業高等学校時代に心を揺り動かせた音楽は、フォークソングではなく、ラジオから流れてきたシャンソンやカンツォーネだったという[1]。高校卒業後、父と同じく鉱山技師として就職[1]。暇を見つけては曲作りに励み、1975年に開催された『第10回ヤマハポピュラーソングコンテスト』に『わかって下さい』で出場し最優秀曲賞を受賞[4]。また、同曲で『第6回世界歌謡祭』に入賞[1][5]したことがきっかけとなり、翌年ディスコメイトレコードから『わかって下さい』でデビュー。
当時のフォークブームに乗り[3]、人気が爆発し稼ぎ高は30億円ともいわれ[2]、ヤマハ(ヤマハ音楽振興会)のドル箱スターになった[2]。当時のヤマハは因幡以外で稼げるのは中島みゆきぐらいしかまだおらず[2]。因幡は創作活動には絶えず故郷秋田に帰る必要があると考えていたが[2]、コンサートツアー等でほとんど秋田に帰れなくなり[2]、ヤマハから新曲の催促を厳しく受けたこと等から[2]、吉田拓郎の事務所・ユイ音楽工房(レコード会社は必然的にフォーライフになる)に移籍したがっているとマスメディアに報じられたため[2]、ナベプロに育てられた森進一が造反を起こした事件に例えられた[2]。結局、1978年8月に設立されたEPIC・ソニーに移籍している[2]。
その後は段々とコンサートの集客にかげりが見え、スタッフが次々に去り、気が付いたら因幡一人になっていた[3]。1983年5月に起きた日本海中部地震で、亡くなった子供たちへの鎮魂歌「十三の魂」を作り、秋田でソロでチャリティーコンサートを開き、久しぶりにギターの弾き語りをやり、忘れていたことに気付いた[3]。「軌道に乗せられたのではない自分」を探す心の旅を続けようと決意した[3]。
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ディスコグラフィ
シングル
デュエットシングル
その他の楽曲
- 天馬のように(1998年)
- 競走馬、サイレンススズカの追悼歌
アルバム
オリジナル・アルバム
ライブ・アルバム
カバー・アルバム
セルフカバー・アルバム
ベストアルバム
参加楽曲
タイアップ曲
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楽曲提供
30周年ツアー
因幡晃30th Anniversary CONCERT TOUR 「ミーム~心の遺伝子の叫び」が2005年9月をかわきりに行われた。日程は以下のとおり。
2005年
- 9月11日 パルテノン多摩小ホール
- 9月15日 秋田市文化会館小ホール
- 9月17日 郡山市創空間富や蔵
- 9月23日 宮古マティダ市民劇場
- 9月24日 沖縄市民小劇場あしびなー
- 9月25日 奄美ASIVI
- 10月5日 旭川鷹栖メロディーホール
- 10月8日 札幌道新ホール
- 11月10日 山梨県民文化ホール
- 11月19日 伊勢崎市文化会館ホール
- 11月25日 神戸チキンジョージ
- 11月26日 京都 都雅都雅
- 11月30日 さいたま市文化センター小ホール
- 12月19日 岡山全日空ホテル
- 12月24日 六本木プリンスホテル
2006年
- 1月14日 三島市文化会館小ホール
- 1月15日 川越鶴川座
- 1月27日 大阪バナナホール
- 1月28日 名古屋ボトムライン
- 1月29日 浜松フォルテホール
- 2月19日 いわき BAR QUEEN
因幡晃30th Anniversary CONCERT TOUR FINAL 「人生それは終わりのない旅」 2006年3月4日 日本青年館
- 上記、コンサートツアーファイナルの模様とインタビューで綴る30年の歴史が、2006年5月25日に初めてDVDとして発売される。
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出演
ラジオ番組
- 因幡晃 誌・旅・心(文化放送)
- 真夜中ギンギラ大放送 おぼん・こぼんの3時間溺れっぱなし(ラジオ関西)
- アフタヌーン・パラダイス(ミュージックバード、毎週金曜担当)
脚注
外部リンク
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