トップQs
タイムライン
チャット
視点

稲垣太成

ウィキペディアから

Remove ads

稲垣 太成(いながき たいせい、1955年12月6日 - 2013年7月31日)は京都府出身のプロゴルファー

概要 稲垣 太成Taisei Inagaki, 基本情報 ...

来歴

要約
視点

18歳からゴルフを始め[1]1979年にプロに転向[2] [3] [4]。ドライバーの飛距離で'“飛ばし屋”として知られた[3] [4]ほか、豪快なショットには定評がある[1]ロングヒッター[5]であった。

1983年のマンシングクラシックでは初日を陳志明中華民国)と共に65をマークして首位タイ[6]でスタートし、2日目には陳・松井角次と並んでの2位タイ[7]、3日目には青木基正山本善隆謝敏男(中華民国)と並んでの8位タイ[8]に後退した。

1984年にはゴルフダイジェストドライビングコンテストで日本記録の342ヤードをマークして優勝し[9]かながわオープンでは初日に石井秀夫草壁政治に次ぐと同時に新関善美矢部昭大町昭義尾崎将司金井清一と並んでの6位タイ[10]でスタートすると、最終日には尾崎・金井に次ぐと同時に矢部・河野和重を抑えての3位[11]に入る。

1985年の第1回水戸グリーンオープンでは丸山智弘川波通幸杉谷博美に次ぐ5位タイ[12]1986年のかながわオープンでは河野を抑えて[13]大会初優勝を飾る[2]

1986年は東北クラシック新井規矩雄尾崎健夫と並んでの5位タイ[14]日本プロでは入野太古木譲二と並んでの7位タイ[15] [16]ゴルフダイジェストトーナメントでは渡辺司と並んでの3位タイ[17]に入った。

1987年日本プロマッチプレーでは1回戦敗退に終わったが尾崎将司を粘りで苦しめ[18]、ゴルフダイジェストトーナメントでは石井裕士陳志忠中華民国)と並んでの8位タイ[19]に入った。

1988年にはNST新潟オープン室田淳海老原清治柴田猛倉本昌弘と並んでの6位タイ[20]ジーン・サラゼン ジュンクラシックではグレッグ・ノーマンオーストラリア)、柴田・青木功中村忠夫と並んでの7位タイ[21]に入った。

1990年から3シーズンはシード選手として活躍し[5]よみうりサッポロビールオープンでは藤木三郎の2位[22]関東オープンでは川岸良兼・青木・羽川豊に次ぐ4位[23]東海クラシックでは杉原輝雄陳志明(中華民国)と並んでの9位タイ[24]に入る。

1990年の栃木オープンでは初日を金子登喜雄高橋完川俣茂小泉清一と並んでの4位タイ[25]でスタートすると、最終日には69をマークして鹿毛隆男野口裕樹夫を抑えて優勝し[26]、2勝目を挙げる[2]

1991年にはブリヂストン阿蘇オープンで室田の2位[27]、ジーン・サラゼン ジュンクラシックでは中村通ハル・サットンアメリカ)と並んでの10位タイ[28]カシオワールドオープンでは陳志忠、サンディ・ライルスコットランド)、スティーブ・ペイト(アメリカ)と並んでの10位タイ[29]に入った。

1992年はブリヂストン阿蘇オープンでピーター・シニア(オーストラリア)、リック・ギブソンカナダ)に次ぐ日本人最上位の3位に入る[30]

日本プロでは3日目に6アンダー66をマークして通算7アンダーで首位に立つが、最終日には15番でOBを叩いて後退[31]。最終的には倉本・中嶋常幸に次ぐと同時にバレント・フランクリン(カナダ)、佐々木久行ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、室田・新関善美・杉原、デビッド・イシイ(アメリカ)、山本善隆を抑え、鈴木弘一と並んでの3位タイに入った[31]

その後もよみうりサッポロビールオープンで川俣茂・山本・平石武則らと並んでの6位タイ[32]ミズノオープンでは湯原信光牧野裕水巻善典・中嶋・奥田靖己と並んでの8位タイ[33]に入った。

1993年ポカリスエットオープンで牧野・尾崎健・木村政信と並んでの7位タイ[34]札幌とうきゅうオープンでは友利勝良井上久雄・渡辺と並んでの10位タイ[35]に入った。

2002年サン・クロレラクラシック[36]を最後にレギュラーツアーから引退するが、シニア転向後も切れ味鋭いショットを武器に好成績を残す[1]

2008年コマツオープンで5位タイとすると、小林旭・三甲シニアでは飯合肇と優勝を争い2位タイと健闘、高額賞金の最終戦PGA Handa Cupでも5位タイに入った[5]。シニアツアー全9試合に出場して賞金ランク24位とし、シニア転向後初のシード権を獲得[5]

2011年は千葉県シニアオープン3位・烏山城ビートルゴルフ4位タイであり[37]2012年のISPSグローイングシニアオープン第3戦では初日5位スタートで、最終日には7バーディ2ボギーの67で回り、トータル7アンダーとし、見事逆転優勝を決めた[38]

2013年7月31日午後4時50分、がんのため横浜市港北区病院で死去[3] [4]。57歳没。

Remove ads

主な優勝

レギュラー
  • 1986年 - かながわオープン
  • 1990年 - 栃木オープン
  • 1996年 - ダイワカップ山梨オープン
シニア
  • 2012年 - ISPSグローイングシニア

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads