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稲田 (長野市)
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稲田(いなだ)は、長野県長野市の北東部の地区。住居表示実施済みで一 - 四丁目まである。郵便番号は381-0042。
概要
要約
視点
地区の南端を浅川が流れ、北端を新田川が流れる。南東の隅にしなの鉄道北しなの線が走り、三・四丁目の境を成す。北部に北部幹線が東西に通り、西部を若槻大通り・長野県道60号長野荒瀬原線(旧北国街道)、東部を市道東豊線が南北に貫く。周囲は以下の大字・町丁と接する。

若槻大通り・北部幹線(サンロード)・東豊線の3本の幹線道路が通り、地区内には鉄道駅こそないものの多くの路線バスが走っており、交通の便はよい。土地区画整理事業も進み、長野市の近郊住宅地として発展している。若槻大通り・北部幹線(サンロード)沿いにはロードサイド店舗が軒を連ねる。
もとは稲作・畑作地帯であり、前身の稲積(古くは稲住とも書いた)という地名は稲作が盛んであったことが由来であるという[1]。1604年(慶長9年)には村内東部を通る東山道の支道が北国街道に指定され、村内には一里塚(稲積一里塚)が築かれた。この一里塚は、北塚・南塚の2基双方が完全な形で残っている貴重な史跡である。なお、北国街道はその後1611年(慶長16年)、村内西部の、現在の長野県道60号長野荒瀬原線(旧道)の道筋に移った。
地名の由来は、前身の稲積村・山田村が1875年(明治8年)に合併した際に両村名から1字ずつ採った合成地名[1]。
地区内の人口および世帯数は以下の通り(令和5年3月1日現在)[2]。
沿革
現在の稲田地区の範囲は、概ね旧上水内郡稲田村の範囲に相当する。
- 旧稲田村の歴史
- 江戸時代 - 前身の上稲積村・下稲積村(郷帳上2ヶ村に分かれていたが、宿駅としては一村として扱われていた)は松代藩領、山田村は川中島藩領を経て松代藩領であった
- 1604年(慶長9年) - 徳川秀忠の命で一里塚が築かれ、稲積村に北国街道稲積一里塚が置かれる
- 1611年(慶長16年)9月 - 北国街道の道筋が変わり、稲積一里塚から外れる
- 1774年(安永3年) - 山田村、稲積宿の助郷となり、人馬継立の役務を担う
- 1873年(明治6年) - 上稲積村と下稲積村が合併し、水内郡稲積村となる
- 1875年(明治8年) - 水内郡稲積村・山田村が合併し、同郡稲田村となる
- 1876年(明治9年)12月 - 水内郡稲田村、同郡西条村の稲蔵地区を編入
- 1879年(明治12年)1月4日 - 郡区町村編制法施行。稲田村は上水内郡に属する
- 1889年(明治22年)4月1日 - 上水内郡稲田村、同郡檀田村・徳間村・上野村・吉村・田子村・東条村・西条村と合併し、若槻村となる
- 1954年(昭和29年)4月1日 - 上水内郡若槻村、同郡朝陽村・古里村・柳原村・浅川村・長沼村・安茂里村・小田切村・芋井村・大豆島村とともに長野市に編入。旧稲田村域は大字稲田となる
- 長野市稲田の歴史
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交通
路線バス
施設
稲田一丁目
稲田二丁目
- 中の池
- AOKI 若槻店
稲田三丁目
稲田四丁目
脚注
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