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立行司

大相撲の行司最高位 ウィキペディアから

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立行司(たてぎょうじ)は大相撲行司における最高位の階級である。かつては力士の横綱と同様に吉田司家の立行司免許を必要としたため、行司の横綱に相当する。

概説

要約
視点

江戸相撲の行司家として最後まで残った木村家式守家の当主が代々木村庄之助式守伊之助を名乗っており、この2名跡の襲名者が立行司に遇されている。1927年(昭和2年)に大坂相撲が合併した際、大坂相撲の立行司木村玉之助が新たに加わり3名になったが(もう1人の大坂立行司木村清之助は除外された) 、1951年(昭和26年)に玉之助がこの時導入された副立行司に格下げとなり、2名跡体制に戻った(副立行司制は1960年(昭和35年)1月の行司停年制施行に伴い廃止され、玉之助も襲名されていない)。

慣例上庄之助が首席、伊之助が次席とされるが、例えば1877年から1880年までは6代伊之助が首席、14代庄之助が次席であった。1898年から1905年までは16代庄之助が首席、木村瀬平が次席であるなど明治後期までは定義が不明確であった。逆に、伊之助襲名の時点では第三席だった者も存在する。1910年に庄之助が首席、伊之助が次席であると明文化された。また、従来行司は改姓をすることが出来なかったため庄之助、伊之助はそれぞれ三役格から直接昇格していたが、1911年から改姓が解禁され、三役格から伊之助に、次いで庄之助に昇格するようになった[1]。その後も伊之助を経ずに庄之助を襲名する者は何人か出たが、行司停年制の導入後は完全に伊之助襲名が庄之助襲名の必要条件として定着した[注釈 1]

吉田司家は立行司に対する免許発行権をもっており、日本相撲協会の推薦によって司家が免許を出すという手続きを踏んでいたが、1951年(昭和26年)1月にこの制度は廃止された。その後も昇進の報告のみは行われていたが、1986年に完全断絶となり[2]、現行制度下では日本相撲協会理事会において立行司への昇進を審議することになっている。

本場所の本割では、木村庄之助は結びの一番のみ、式守伊之助はその前の二番を裁く。優勝決定戦においては、幕内優勝決定戦で横綱・大関が登場している場合、原則として立行司が担当する。現在の規則では、木村庄之助と式守伊之助が共に出場している場合、原則として庄之助が土俵に上がって伊之助が控に入り、取組が多く交代する場合は伊之助も土俵に上がることになる。過去には庄之助が裁きを譲りたいとして、また「庄之助は1番限り」として、現在の原則とは逆に伊之助が先に土俵に上がっていたこともあった。立行司が休場や番付上不在などの理由により1人または0人の場合は、三役格行司が欠員分を代行する。また横綱土俵入りの先導、土俵祭の祭主も務める。

立行司名として用いられる名跡である木村庄之助と式守伊之助は、かつては年寄名跡でもあったが、1958年(昭和33年)限りで年寄名跡としては廃止された。ただし、立行司はかつての名残りで「親方」の語の範疇に含まれる[3]。また相撲協会の公益法人化以前は、年寄横綱大関同様、評議員として役員選挙の選挙権をもち (被選挙権はない)、評議員会に出席することができた。

1940年(昭和15年)の20代庄之助を最後に現役中に亡くなった立行司はいない。また、停年制導入後に停年を待たずに退職した立行司は25代庄之助40代伊之助の2名がいる(前者は軍配差し違えの責任を取る形で退職、後者は不祥事により退職)。

庄之助は総紫、伊之助ならびに玉之助を含む副立行司は紫白の房・菊綴を使用し[注釈 2]短刀印籠足袋草履を着用する[4]

なお、1992年5月場所以降、番付に立行司のみ代数を合わせて記載されるようになった。2011年1月場所以降、場内アナウンスでも行司紹介のうち、立行司のみ代数を合わせて紹介されるようになった。

立行司は三段目格以下の行司を付け人として2人従えている[5]。立行司に昇進すると、名誉賞として50万円が授与される。

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立行司の空位

江戸時代から庄之助または伊之助の片方が空位になる場合や、立行司が休場などにより土俵に上がれずに三役格行司が結びを裁くことが時折発生していたが、双方が空位になることは長らく発生しなかった。

1927年(昭和2年)の大阪相撲との合併以後では、1972年(昭和47年)3月場所において前場所限りで25代庄之助が退職、22代伊之助が差し違えにより13日目の1日間出場停止となり初の立行司不在を記録した。

1993年(平成5年)7月場所後の27代伊之助、11月場所後に28代庄之助が停年退職し、1994年1月と3月の2場所は立行司への昇格がなく、三役格行司3名が交替で結びを裁いた。

2015年(平成27年)11月場所7日目、度重なる差違えにより40代式守伊之助が翌8日目より3日間の出場停止処分を受けた。37代木村庄之助が3月場所限りで停年となって以降、木村庄之助が空位となる状態が続いていた為、この出場停止により21年振りに立行司が不在となった。

2017年(平成29年)5月場所、40代式守伊之助の喉の違和感が悪化し、6日目の取組では本来の発声に程遠い状況にまでなった。診察の結果、咽頭炎により安静と発声を控えるのが望ましいとの診断書を提出し、40代式守伊之助は同日より休場した[注釈 3]。更に、前述の木村庄之助が空位となる状態は続いていたため、2015年11月場所10日目以来、約2年ぶりの立行司不在となった。

2018年(平成30年)1月、同じ40代式守伊之助がセクハラ問題を起こして謹慎処分(同年1月場所より3場所出場停止)となり、再び立行司が不在となり、40代式守伊之助は処分明けの5月場所後に退職した。これにより同年11月場所まで(出場者としては1月場所から、番付上では7月場所から)立行司不在となったが、9月27日の理事会で11代式守勘太夫が12月25日付で立行司に昇格し、41代式守伊之助を襲名することが決定した[7]

2023年(令和5年)9月28日、日本相撲協会の理事会は、同年12月25日付で41代式守伊之助が38代木村庄之助を襲名することを決定した。41代伊之助が立行司に昇進した時点で既に庄之助は不在だったにもかかわらず庄之助襲名まで5年を要した背景には、41代伊之助は差し違えが多いといった事情があったとみられる[8]。後任の伊之助を襲名する者はおらず、2024年1月場所以降も引き続き立行司は1人だけの状況が続いたが、2024年8月1日の理事会で3代木村容堂が8月26日付で42代式守伊之助を襲名することが決まり、同年9月場所では2015年3月場所以来、9年半ぶりに立行司2人体制に戻ることになった[9]

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立行司の帯刀

江戸時代には行司は全員が帯刀していたが、廃刀令により帯刀しなくなり、のちに立行司のみ帯刀が復活した[注釈 4]

現行の立行司が土俵上で差す短刀は刃渡り22センチの真剣で、銃刀法に基づき東京都公安委員会許可を受けて所持している[10]。これは、軍配を差し違えた場合には切腹するという覚悟を示したものとする説が今日では広く流布している。1921年(大正10年)5月場所において17代庄之助が差し違いをした責任を取って辞職した際に、以前なら切腹ものだと言ったことで当時の新聞や雑誌が騒ぎ立て、以後立行司の帯刀が切腹のシンボルに変化していったとされている[11]。ただし、35代木村庄之助は「かつて行司を行っていたのが武士だったことから、帯刀はその名残に過ぎない」と説明し[12]吉田司家第25代当主吉田長孝は「立行司としての帯刀は吉田追風の直門人としての威厳を保つためのもので、相撲での差し違えで切腹する意味ではない」と述べている[13][14]

差し違いをした立行司は実際に切腹をすることこそないものの[10]日本相撲協会進退伺いを出すことが慣例となっている。現在までのところ差し違いをした立行司の進退伺いが実際に受理されて退職した例はないが、25代木村庄之助が進退伺いを拒否したために謹慎処分を受け、翌場所前に廃業した事例はある。差し違いそのものよりも慣例を破ったことが問題視されたことが分かる(物言い#ビデオ判定も参照。ただし、この事例は行司のストライキ決行直後という事情もあった)。26代庄之助からは口頭でお詫びを伝えるようになった。

立行司の一覧・変遷

  • 個人の業績などについては各名跡および各人の記事を参照のこと。
さらに見る 場所, 木村庄之助 ...
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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