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童冠賢
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童 冠賢(どう かんけん)は、中華民国の学者・政治家。国共内戦期に立法院長を務めた人物である。名は啓顔だが、字の冠賢で一般に知られる。
事績
天津の南開大学を卒業。日本に留学し、1920年(民国9年・大正9年)に早稲田大学大学部政治経済学科を卒業した[1]。続いてアメリカに留学し、コロンビア大学で経済学修士の学位を取得する。その後ドイツにも留学し、ベルリン大学大学院に在学した。さらにイギリスにも留学して、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に在籍した。
1925年(民国14年)に帰国し、北京大学教授となる。まもなく顧孟余に追随して広州に向かい、中国国民党に加入した。その後、北京に戻り、国民党政治委員会華北分会委員として党務工作に従事した。中山大学教授、安徽大学法学院院長、国立編訳館人文組主任、中央大学法学院院長を歴任している。
1933年(民国22年)2月、監察院監察委員に任命される。同年6月には監察院審計部常務次長に昇進した。以後も、監察院で監察委員をつとめた他、国民参政会参政員、中央大学経済系主任などを歴任した。1943年(民国32年)12月、監察院山西・陝西監察区監察使に任じられている。
1946年(民国35年)11月には憲法制定(「制憲」)国民大会代表に当選した。1948年(民国37年)11月、孫科の後任として立法院長に就任した。しかし、国共内戦の帰趨が決した1949年(民国38年)10月に辞任している。
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注
参考文献
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