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竹岡和宏
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竹岡 和宏(たけおか かずひろ、1975年1月25日 - )は、滋賀県栗東市出身の元プロ野球選手(投手)。
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来歴・人物
要約
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プロ入り前
守山高等学校では1991年秋季県大会で準々決勝に進むが、瀬田工に延長11回裏逆転サヨナラ負け。翌1992年春季県大会でも準決勝に進出、先発するが比叡山高との乱打戦の末に9回裏逆転サヨナラ負け。近畿大学に進学。関西学生野球リーグでは4回の優勝を経験するが、1学年上に大塔正明、同期に今井圭吾、1学年下に清水章夫と好投手がおり、4年秋に3勝を挙げてリーグ戦優勝に貢献した以外はあまり活躍の場はなかった。卒業後は地元・日本IBM野洲に入社。チームが1999年の社会人野球日本選手権準決勝で敗退した後に退部。数球団のプロテストを受けるものの不合格に終わる。2000年には中山硬式野球クラブに入団した。
米国でのプレー
会社を退職して渡米し、同年秋にアトランタ・ブレーブスとマイナー契約を結ぶ。
2001年、2Aグリーンビルからキャリアをスタート。
2002年には3Aリッチモンドに昇格を果たす(このとき元巨人のデーモン・ホリンズとチームメイトとなる)が、シーズン途中で再び2Aグリーンビルに降格。その後、独立リーグへ移籍した。
社会人野球、クラブチーム、米マイナーリーグ、米独立リーグと、さまざまな球団を渡り歩き、2003年秋に福岡ダイエーホークスからドラフト8位で指名を受け、入団。29歳でのプロ入りとあって、同期で27歳で入団した三瀬幸司と共にオールドルーキーとして注目を集めた。
ソフトバンク時代
2004年は開幕から一軍に上がり、主に中継ぎとして13試合に登板。
2006年は自己最多の22試合に登板して防御率1.88の好成績を残した。
2007年も2年連続の防御率1点台を記録するが、登板機会は僅かであった。
2008年は19試合に登板し、防御率は2点台だったが、同年オフに戦力外通告を受ける。その後12球団合同トライアウトに参加したが、日本の球団から声は掛からなかった。
ソフトバンク退団後
米球界への復帰を目指し、アメリカ・ロサンゼルス郊外のアーバン・ユース・アカデミー[1]やメサにあるシカゴ・カブスの施設等で自主トレを行い、かつて所属したブレーブスなど[2]各球団のトライアウトを受け、さらに台湾プロ野球のLa Newべアーズ入団テストも受験したが、契約はならなかった。
2009年5月からは社会人野球のクラブチーム、OBC高島に入部。選手兼任コーチとして、同年の全日本クラブ野球選手権大会ベスト4進出・社会人野球日本選手権大会の初出場に貢献した。大会でも登板した。その後、自身のブログで2009年限りで現役を引退することを表明した。引退後は野球教室や講演会活動などを行っていた[3]。
2012年11月、西麻布にストレッチスタジオ『トリム西麻布』を開業した[3]。
2017年6月28日の埼玉西武ライオンズ対千葉ロッテマリーンズ戦(沖縄セルラースタジアム那覇)では、琉球放送制作のラジオ中継『RBCiラジオ エキサイトナイター』に野球解説者として出演した。
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詳細情報
年度別投手成績
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
記録
- 初登板:2004年3月28日、対オリックス・ブルーウェーブ2回戦(福岡ドーム)、9回表に6番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:同上、9回表に村松有人から空振り三振
- 初先発:2004年4月14日、対大阪近鉄バファローズ3回戦(福岡ドーム)、6回無失点
- 初勝利:2004年4月21日、対オリックス・ブルーウェーブ4回戦(Yahoo!BBスタジアム)、6回裏に2番手で救援登板、1回無失点
- 初ホールド:2005年6月2日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、5回裏2死に2番手で救援登板、1/3回無失点
背番号
- 68 (2004年 - 2008年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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