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村松有人
日本の元プロ野球選手、野球指導者 ウィキペディアから
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村松 有人(むらまつ ありひと、1972年12月12日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。左投左打。
アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
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経歴
要約
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プロ入り前
金沢市立小坂小学校を卒業、金沢市立鳴和中学校に進んだが、父の仕事の都合で敦賀市立松陵中学校に転校。卒業後、金沢に戻り星稜高等学校に進学。星稜高校では5番打者[1]。2学年下に松井秀喜がいた[1]。高校2年の1989年、第71回全国高等学校野球選手権大会に出場し3回戦進出。高校3年の1990年、第72回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが、初戦の2回戦で敗退した。
1990年のドラフト会議では、福岡ダイエーホークスから6位指名を受け、入団した[1]。
ダイエー時代
1991年はサリナス・スパーズに野球留学した。
1992年8月11日の西武ライオンズ戦で一軍初出場、翌8月12日の西武戦では石井丈裕からプロ初安打を記録した。39試合の出場で打率.188、1打点だった。
1993年8月6日の西武戦で初盗塁を記録。
1995年に規定打席未満ながら3割・32盗塁で1番打者に定着した。
1996年は完全にレギュラーを獲得し、108試合の出場で打率.293、38打点、58盗塁を記録し、盗塁王のタイトルを獲得した。
1997年にも42盗塁を記録している。
2003年7月1日にはサイクル安打を達成した[注 1][注 2]。この年はダイハード打線の核弾頭として、打率.324(リーグ8位[3])、150安打、6本塁打と自己最高の打撃成績に加え、歴代5位タイとなる13三塁打を記録。規定打席に6年振りに到達した。盗塁王争いでも井口資仁との激しい競争をリードしていたが、8月23日の対千葉ロッテマリーンズ戦(福岡ドーム)で捕球を試みた際に右鎖骨を骨折して離脱。日本シリーズ(対阪神タイガース戦)には復帰して日本一に貢献した。
この年のオフにFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブへ移籍。
オリックス時代
2004年にはアテネオリンピック野球日本代表に選出される。この年は出場こそ108試合だったが大きく低迷するチームにおいてリーグ5位の打率.320[4]、3月28日の対福岡ダイエーホークス戦(福岡ドーム)で2点を追う4回二死満塁の打席で新垣渚から放った逆転満塁本塁打[5]を含む自己最多タイの6本塁打をマークした。この年のオフには大阪近鉄バファローズとの球団合併による選手分配ドラフトにより引き続きオリックスと契約[6]。
2005年は118試合に出場し、打率.247、30打点と、打率が2割5分を下回り規定打席にも届かなかった。
2006年は126試合に出場して2年ぶりに規定打席に到達し、チームトップの打率.303(リーグ10位)と健闘した。
2007年も128試合に出場し、打率.289と下がったが前年より多い131安打を記録した。
2008年は春先こそ活躍したが、7月3日のソフトバンク戦で盗塁時に足を痛めて降格。8月19日に復帰したものの、不在の間に小瀬浩之が台頭したため出場機会を得られず、出場試合数が6年ぶりに100試合未満に終わった。10月31日、大村直之との交換トレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。5年ぶりの古巣への復帰となった。
ソフトバンク時代
2009年は開幕前に左足ふくらはぎを痛め出遅れたが、5月22日に一軍登録され、外野のスーパーサブ的な役割を担っていた。
2010年は開幕を一軍で迎えたが、3月22日の北海道日本ハムファイターズ戦に代打で起用されたのみで降格となった。以後は出場機会がなく、9月27日に現役引退を発表した。ファン感謝祭での引退挨拶においては、「自慢の脚力を活かして」と発言してスカウト活動を誓った。
引退後
2011年からはファン感謝祭での発言通り、ソフトバンクのスカウト(東海・北信越担当)を務めた[7]。
2014年からは三軍外野守備走塁コーチとして現場に復帰[8]。
2015年には、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表外野守備・走塁コーチを務めた[9]。
2017年から2023年まではソフトバンクで一軍外野守備走塁コーチを務め[10]、2024年は一軍打撃コーチを務めた[11]。2025年からは二軍打撃コーチを務める[12]。
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選手としての特徴・人物
俊足巧打と広い守備範囲が持ち味の外野手[13][14]。現役時代を通して先発出場の際は主に1番打者を務めることが多かった[15]。
引退会見で、チームが不振だった1996年に選手が乗ったバスに対してファンから生卵を投げつけられたこと(生卵事件)を涙ながらに思い起こし、「あの悔しさを野球人生にぶつけようと思ってやってきた。1999年の最初の優勝で(当時の)王監督を胴上げできたことが一番うれしかった」と振り返った[16]。
詳細情報
年度別打撃成績
- 各年度の太字はリーグ最多
- ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更
年度別守備成績
- 太字年はゴールデングラブ賞受賞年
タイトル
- 盗塁王:1回(1996年)
表彰
- ベストナイン:1回(外野手部門:1996年)
- ゴールデングラブ賞:2回(外野手部門:2003年、2004年)
- 月間MVP:2回(1995年9月、1996年6月)
- JA全農Go・Go賞:1回(好捕賞:2003年6月)
記録
- 初記録
- 初出場:1992年8月11日、対西武ライオンズ13回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に中堅手で出場
- 初先発出場:1992年8月12日、対西武ライオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、8番・中堅手で先発出場
- 初安打:同上、8回表に石井丈裕から
- 初打点:1992年9月13日、対近鉄バファローズ18回戦(藤井寺球場)、8回表に江坂政明から
- 初盗塁:1993年8月6日、対西武ライオンズ15回戦(福岡ドーム)、8回裏に二盗(投手:横田久則、捕手:垣内哲也)
- 初本塁打:1998年4月12日、対近鉄バファローズ3回戦(大阪ドーム)、1回表に岡本晃から右越先頭打者本塁打 ※1566打席目の初本塁打はNPB史上2番目(当時は史上最高)に遅い記録[17]
- 節目の記録
- 200盗塁:2003年4月19日、対大阪近鉄バファローズ5回戦(福岡ドーム)、1回裏に二盗(投手:岩隈久志、捕手:的山哲也) ※史上64人目
- 1000試合出場:2003年5月3日、対千葉ロッテマリーンズ8回戦(福岡ドーム)、1番・中堅手で先発出場 ※史上385人目
- 1000安打:2005年5月27日、対読売ジャイアンツ4回戦(大阪ドーム)、1回裏にスコット・マレンから中前安打 ※史上232人目
- 250盗塁:2006年7月4日、対北海道日本ハムファイターズ8回戦(札幌ドーム)、3回表に二盗(投手:フェリックス・ディアス、捕手:鶴岡慎也) ※史上39人目
- 1500試合出場:2007年7月7日、対東北楽天ゴールデンイーグルス10回戦(フルキャストスタジアム宮城)、2番・左翼手で先発出場 ※史上153人目
- その他の記録
背番号
- 63(1991年 - 1992年)
- 23(1993年 - 2003年)
- 3(2004年 - 2008年)
- 35(2009年 - 2010年)
- 93(2014年 - )
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脚注
関連項目
外部リンク
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