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第3次吉田内閣 (第2次改造)

日本の内閣 ウィキペディアから

第3次吉田内閣 (第2次改造)
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第3次吉田第2次改造内閣(だいさんじ よしだだいにじかいぞうないかく)は、衆議院議員自由党総裁吉田茂が第49代内閣総理大臣に任命され、1951年昭和26年)7月4日から1951年(昭和26年)12月26日まで続いた日本の内閣

概要 天皇, 内閣総理大臣 ...

前の第3次吉田第1次改造内閣改造内閣である。

内閣の顔ぶれ・人事

要約
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国務大臣

1951年(昭和26年)7月4日任命[1]。在職日数176日(第1次、2次、3次通算1,537日)。

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内閣官房長官・副長官

1951年(昭和26年)7月4日留任。

さらに見る 職名, 代 ...

政務次官

内閣発足時

1951年(昭和26年)7月4日留任。

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政務次官改造後

1951年(昭和26年)12月12日任命。

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勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

さらに見る 名称, 国務大臣 ...

内閣の動き

サンフランシスコ講和条約締結に向けて、吉田茂首相は広く日本国民の支持を得て講和条約締結に臨むべく、与党の自由党に加え、各党の支持を獲得したいところであった。そのため自由党は、同じく保守政党であった国民民主党との保守提携に動いた。しかし、この時期、国民民主党保守提携派は、林屋亀次郎などの閣外協力を志向する一派と、西田隆男らの閣内協力にまで踏み込む一派とがあり、これに自由党の増田甲子七幹事長と広川弘禅総務会長(この二人は、吉田後継をめぐるライバルでもあった)とが、それぞれに接触、工作を繰り広げ、1951年(昭和26年)6月下旬から7月上旬にかけて、保守提携の交渉は暗礁に乗り上げる形となった。

結局、同年7月3日に吉田内閣は単独で内閣改造を行い、閣僚の大部分が留任、前の党三役であった佐藤栄作益谷秀次根本龍太郎らが入閣した。

主な政策
なお、この両条約への締結には、日本社会党および国民民主党の両野党は全権団への参加が求められ、国民民主党からは苫米地義三最高委員長が参加したが、社会党は、両条約への態度を巡って党内が対立。安保条約への反対は党内一致だったが、左派は全面講和論を訴えて講和条約にも反対の立場をとった一方、右派は片面講和(多数講和)を訴えて講和条約のみ賛成する「条約可分論」を打ち出した。10月23日、臨時党大会で徹夜の紛糾の末、社会党は左右両派に分裂することとなった。

講和条約の締結・批准を経て、日本の独立回復は決まり、吉田首相はこれを花道に政権を去ると思われていたが、吉田首相は引き続きの政権継続に意欲を示し、12月26日に3度目の内閣改造を実施。以降、吉田内閣の後半は党内での政争に明け暮れることとなる。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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