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興部駅
かつて北海道紋別郡興部町にあった北海道旅客鉄道の駅(廃駅) ウィキペディアから
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興部駅(おこっぺえき)は、北海道(網走支庁)紋別郡興部町字興部にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)名寄本線の駅(廃駅)である。事務管理コードは▲122113[2]。1985年(昭和60年)までは興浜南線の分岐駅でもあった。

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歴史
1980年(昭和55年)9月30日まで運行されていた急行「天都」・1986年(昭和61年)10月31日まで運行されていた急行「紋別」の停車駅であった。
- 1921年(大正10年)
- 1923年(大正12年)11月5日 - 線路名を名寄本線に改称、それに伴い同線の駅となる[3]。
- 1935年(昭和10年)
- 1944年(昭和19年)11月1日 - 興浜南線が不要不急線として休止される[3]。
- 1945年(昭和20年)12月5日 - 興浜南線が営業再開[3]。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 日本国有鉄道に移管。
- 1955年(昭和30年) - 鉄道弘済会売店(後のキヨスク)出店[6]。
- 1961年(昭和36年)11月 - 弁当構内立売営業開始(米田弁当店)[6]。
- 1962年(昭和37年)5月 - 急行「紋別」及び準急「天都」の停車駅となる[6]。
- 1968年(昭和43年)7月25日 - 補助コンテナ基地設置[7]。
- 1982年(昭和57年)11月15日 - 貨物取扱い廃止[4]。
- 1984年(昭和59年)2月1日 - 荷物取扱い廃止[4]。
- 1985年(昭和60年)7月15日 - 興浜南線が廃止される[3]。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR北海道に継承[4]。
- 1989年(平成元年)5月1日 - 名寄本線の廃線に伴い廃止となる[3]。
駅名の由来
→「興部町 § 町名の由来」も参照
当駅の所在する地名より。アイヌ語の「オウコッペ[8]」〔川尻・互いにくっつく・もの(川)〕に字を当てたものであるとされる[9][10][11]。
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駅構造
廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった[12]。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した[12]。1983年(昭和58年)時点では、駅舎側(西側)が1番線、上屋が設置された[13]島式ホーム駅舎側が2番線、外側が3番線となっており、何れも上下共用であった。3番線の外側に側線を3線有し、そこから給水線などの行き止まりの側線も数線有した。そのほか1番線の遠軽方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を2線有していた[12]。
職員配置駅となっており、駅舎は構内の北西側に位置し単式ホーム中央部分に接していた[12]。ホームの有効長は120mあった[12]。
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
駅弁
駅周辺
駅跡


2000年(平成12年)時点でバスターミナルを兼ねた「道の駅おこっぺ」となっている[17]。道の駅おこっぺの一角には1992年(平成4年)6月から興部町により「興部交通記念館」が開設されている[18]。館内には当時使用していた備品、乗車券、レール、時刻表、駅舎モデル、写真パネルなどが保存・展示されている[18]。駅舎モデルは宇津駅、当駅、沙留駅の3駅が展示されている[19]。館外の敷地にはキハ22形気動車キハ22 202、キハ22 251の2両が連結された状態で静態保存・展示され、前者が休憩所、後者がライダーハウスとして使用されており[18]、「ルゴーサ・エクスプレス」と名付けられている[20]。また駅構内跡地は広いため公園にも転用されており[17]、モニュメントとして[19]D51形蒸気機関車D51 365号機の動輪が保存・展示されている[18]。2010年(平成22年)時点[20]、2011年(平成23年)時点[19]でも同様であった。
また、2000年(平成12年)時点では北興駅 - 当駅間の線路跡の一部がサイクリングロードに転用されており、それを跨ぐ陸橋に「天北こ線橋」の名が残っていた。2010年(平成22年)時点[20]、2011年(平成23年)時点[19]でも同様であった。
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隣の駅
脚注
関連項目
外部リンク
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