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薬師岳の圏谷群

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薬師岳の圏谷群(やくしだけのけんこくぐん)は、富山県富山市南東部の飛騨山脈立山連峰南部に位置する薬師岳標高2,926 m)山頂直下の東斜面に並んだ、国の特別天然記念物に指定された大規模な圏谷群である[2][3][4][5]

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北薬師岳の山頂から望むモルゲンロートに照らされた薬師岳と山頂直下南東斜面の金作谷カール。平坦なカール底には残雪と、モレーン、プロテーラス ランパート (en:Protalus rampart) 、近年は岩石氷河 (en:Rock glacier) の可能性が指摘される様々な堆積地形が見られる[注釈 1][1]。2015年8月8日撮影
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薬師岳の圏谷群
薬師岳の
圏谷群
薬師岳の圏谷群の位置[注釈 2]

圏谷(けんこく)とは、カールドイツ語: Kar英語: Cirque[注釈 3])とも呼ばれる氷河地形のひとつで、氷河の谷頭側(源流最上部)の岩盤が、ゆっくりと流下移動する氷体の浸食により、丸くU字型に深く抉り取られ、お椀を半分に割ったような半円形状の地形となったものである[6]。日本国内では最終氷期までに形成されたと考えられる圏谷地形が 日本アルプス全域(飛驒山脈木曽山脈赤石山脈)および北海道日高山脈に存在し[7]、これらの圏谷内には氷食作用氷河作用によって形成されたモレーン羊背岩などの超極微地形や、圏谷周辺の高山帯には周氷河性平滑斜面と呼ばれる全体的に平滑で丸みを帯びた周氷河地形が見られ、日本ではこれらの地形を氷河遺跡と呼んで地形学雪氷学の研究対象とされてきた[8]

本記事で解説する薬師岳の圏谷群は3つないし4つの圏谷から構成され、規模や形状が揃っていることに加え、ほぼ同じ高度に整然と並列している[7][9]。このような景観をもつ圏谷は日本国内では他に類例が少なく、日本アルプスにおける代表的な圏谷地形であるとして[10][11]1945年昭和20年)2月22日に国の天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日には特別天然記念物に格上げされている[2][3]

氷河遺跡(氷河地形)を対象とする国指定の天然記念物は、本記事で解説する特別天然記念物の薬師岳の圏谷群と、同じ立山連峰にある立山の山崎圏谷(富山県中新川郡立山町、こちらは天然記念物)の2件のみ。いずれも日本における氷河研究(英語: Glaciology)初期の、明治30年代に発見された標式的な圏谷である[10][12]

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解説

要約
視点
概要 全ての座標を示した地図 - OSM ...

圏谷群

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薬師岳の圏谷群周辺の空中写真。山頂稜線の東面を北から、金作谷カール、中央カール、南カールの順で並んでいる。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1977年9月16日撮影の画像を使用作成)

薬師岳は飛騨山脈北部立山連峰立山黒部五郎岳の中間にある標高2,926 mの日本百名山花の百名山に選定された山で、夏山シーズン中は多くの人々が訪れ、古くから登山者によく知られた山域である[13]。山頂を含む周辺山域は中部山岳国立公園特別保護地区内に位置している[14]

冬季の立山連峰は日本有数の多雪地域であり、薬師岳山頂付近の稜線は日本海側から吹き付ける季節風が最初にぶつかる山稜であるため、ひとたび天候が悪化すると凄まじい風雪に見舞われ[15]、特に稜線東側直下の圏谷内では大量の積雪によって雪崩が多発する[16]。一方、圏谷上部の稜線上は雪稜が刃の刃先のように尖ったナイフリッジ状になることがあり、風下側にあたる圏谷側へ張り出す雪庇が発達し[16]、圏谷内の残雪の一部は真夏を過ぎて初秋まで残り、万年雪となって次シーズンの冬まで持ち越される[17]

薬師岳付近では標高2,450mから2,550m以上が森林限界となっており[17][18]、山頂周辺はなどの砕屑物に覆われた植生に乏しい吹き曝しの場所で、山頂を挟んで南北方向に連なる立山連峰の主稜線は、S字状に湾曲しながら北東から南西方向へ伸び、ほぼ同じ標高で連なっている[19]

薬師岳山頂から南へ約1kmの地点にある避難小屋跡とケルンのある場所(東南尾根分岐点座標)で尾根が南西と東南の2つに分岐しており、このうち立山連峰の主稜線は南西方向の薬師峠太郎兵衛平方面へ緩やかに下っていく。もう一方の東南方向へ分岐する尾根が「東南尾根」と呼ばれる支尾根で、1963年(昭和38年)の愛知大学山岳部薬師岳遭難事故で、猛吹雪により方向を見失った13名の大学生が迷い込んだ山岳遭難事故の現場である[20]

国の特別天然記念物に指定された圏谷(カール)群は、この主稜線から東南尾根にかけた山稜直下の東側斜面に連続して並んでおり[19]、各圏谷の上流側の3方向を馬蹄形に囲む圏谷壁(けんこくへき・英語: Cirque wall)の形状が極めて明瞭で圏谷底(カール底)の保存状態が優れた3つの圏谷と[21]、カール形状が不明瞭な圏谷[22](別名、第四圏谷、北カール[22])が北側に1つある[9]。資料により圏谷の数が3もしくは4[23]であるのは、不明瞭な北側の圏谷含めているか否かによるが、一般的に薬師岳の圏谷群と呼ばれるものは保存状態のよい3つの圏谷を指す。本記事では第四圏谷は含めずに、残りの3か所の圏谷について解説を行う。

なお薬師岳の西側斜面は他の北アルプスの標高3,000m付近の高山帯と同様、氷河期に影響を受けた周氷河性平滑斜面と呼ばれる比較的なだらかな氷河地形が広がっているが、圏谷地形(カール)は存在しない。薬師岳の圏谷が東斜面のみに見られることは、日本における氷河地形研究初期の1913年大正2年)に地理学者辻村太郎によって地質学雑誌に報告されている[24][25]

保存状態の優れた東斜面の3つの圏谷は、南側から「南カール」「中央カール」「金作谷(きんさくだに[26])カール」と呼ばれ[注釈 4]、いずれも黒部川上流部の上ノ廊下と呼ばれる深い峡谷へ向かって東側へ急斜している[27]。3つの圏谷は標高2,600 mから2,700 mに整然と並列し、特に黒部川を隔てた赤牛岳から望む薬師岳圏谷群の展望は、日本アルプスにおける圏谷の代表的景観として知られている[9]

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針ノ木岳から望む薬師岳
左から東南尾根、標高点2,786m、南カール、標高点2,855m、中央カール、避難小屋跡、薬師岳山頂、金作谷カール、北薬師岳山頂、(不明瞭な北カール)、間山

南カール

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後立山連峰の布引山鹿島槍ヶ岳冷池山荘の中間)から望む南カール。2018年7月14日撮影。

南カールは別名第一圏谷、もしくは南稜カールとも呼ばれ、前述した東南尾根の標高2,766 mピーク(座標)と、標高2,855mピーク(座標)に挟まれた稜線の東北斜面にあり[9]、カール底の標高は2,600 m、圏谷壁の高さは約100 mである[10]

薬師岳の圏谷群のある一帯の地質は大まかに2つに分けると、火成岩流紋岩)のデイサイト(石英安山岩)と石英斑岩(クォーツポーフィリー)から構成され、このうち南カールと中央カールにかけた圏谷群の南側ではデイサイトの占める割合が高く、北側の金作谷カールではクォーツポーフィリーが優勢である[17]

南カール底の最下部付近には堆積したモレーンや羊背岩が2段になって並び[6][27]、丸みを帯びた羊群岩の岩面には氷河作用による強い研磨の痕跡が残されている[11]。カール底の岩塊堆積地形は北側と南側の圏谷壁(崖推)の基部に1つずつあり、これらの堆積物は従来、モレーン、もしくは落石が堆積したプロテーラス ランパート (en:Protalus rampart) [28]とされていたが、近年の研究では周氷河作用によるマスムーブメント(地形物質が重力によって下方へ移動する現象)作用の影響による、岩石氷河 (en:Rock glacier) である可能性が指摘されている[29]

南カール底の北側の堆積地形は比高が2-3 mほどしかなく、岩塊表面の多くは緑色のハイマツで覆われ周囲との境界も不明瞭であるが、南側の堆積地形は比高が大きく周囲との境界も明瞭で、ほぼ無植生であるため堆積した岩屑の観察が容易である[30]。この南側の堆積地形は、傾斜方向の長さが160 m、最大幅は290 mもあり、周辺部のリッジ(ここでは小規模な尾根上の高まり)も連続し、表層部は角礫で平均長径は1 mで、長径4-5 mの巨礫も多数存在する。岩塊の西側には岩石氷河によく見られる凍結融解作用による円弧状畝構造溝構造が明瞭にみられ、さらに氷が解けて生じる(開析)ギャップ(隙間や段差など)も存在しないため、この堆積岩塊地形は、モレーンやプロテーラス ランパートだけでなく、岩石氷河が活動を停止した(中身の永久凍土が消失した)化石岩石氷河と考えられるようになった[31]

中央カール

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薬師岳の山頂の南側からの望む主稜線直下の東面の中央カール。遠景は黒部川の対岸の赤牛岳水晶岳。2017年9月30日撮影。
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羊背岩 (en:Roche moutonnée) 形成過程のイメージ。

中央カールは別名第二カールとも呼ばれ、3つの圏谷の中央にあり、南カール北端稜線上の2,855 mピークと、薬師岳山頂標高2862 m(座標)に挟まれた東斜面に位置している[9]

中央カールは薬師岳圏谷群のなかで最も規模が大きく、薬師岳山頂南東の直下にあるため圏谷壁の比高は300 m近くに達している[32]。圏谷の幅は南北に約600 mもあり、カール底は水平に近い[32]地質学者小林国夫1955年(昭和30年)に出版した『日本アルプスの自然』(築地書館)で、日本アルプス各所の圏谷に先駆け、中央カールのカール底に岩石氷河が存在している可能性を指摘し、同じく地質学者の山野隆夫も1981年(昭和56年)の日本地理学会予稿集の論文で[33]、岩塊形態と植被の状態から「非活動型岩石氷河」と判断している[27]

南カールと同様に畝構造、溝構造の堆積地形が顕著にみられ、堆積物の連続性からカール底中央部のものと南側のものに分かれ、このうち南側のものは比高が1-2 m程度であるが、斜面傾斜方向の長さは232 m、直交する幅は128 mと細長い舌状(下記空中写真参照)をしているため、一見すると氷雪地形の氷舌(ひょうぜつ・英語: Ice Tongue)の先端部に形成されたモレーンのように見える。しかしこの堆積地形も前述したよう比較的早くから岩石氷河であると考えられており、近年の研究によって化石岩石氷河である可能性が高いとされている。なお、中央カールの末端下部は黒部川側からの谷頭侵食の進行により開析を受け始めており、岩塊表層部の谷側のリッジは所々が崩れ不連続となっている[34]

金作谷カール

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薬師岳山頂から望む北薬師岳と山頂直下北東斜面の金作谷カール。カール底にM字形のリッジ(この角度からだとS字形)を持つ岩塊堆積地形が確認できる。2017年9月30日撮影。

金作谷カールは別名第三カールとも呼ばれ、圏谷群の中で最も北側にあり、薬師岳山頂から北薬師岳山頂標高2,900 m(座標)に挟まれた東斜面にある[9]。金作谷とは明治時代末期に立山連峰一帯の山岳測量に同行した地元の人夫で山登りの達人でもあった実在する人物、宮本金作から名付けられた地名である。金作谷は薬師岳山頂側から黒部川上流の上廊下左岸へ注ぎ込むゴルジュ状の急峻な谷であり、金作谷カールは金作谷の谷頭(最上部)にあたる。宮本金作の名前は新田次郎の小説『劔岳 点の記』にも登場する[35]

金作谷カールの特徴はカール底にある岩塊堆積地形で、岩塊の外縁部がM字形(東側から見るとM字、北側を上部にした場合S字形[26])の明瞭なリッジを持つ堆積地形(下記空中写真参照)で、古くから様々な考察や解釈が繰り広げられてきた。1940年(昭和15年)に地形学者の今村学郎はこのM字形の高まりを雪食 (en:Nivation) 堆積堤(せっしょくたいせきてい)とし、1979年(昭和54年)五百澤智也は最終氷期後半に形成されたモレーンであると報告し、続く1991年平成3年)の小野有五らもモレーンであるとしている[36]

1993年小泉武栄・青柳章一の論文では、M字状のリッジを約2万年前の最終氷期極大期に形成されたモレーンであるとし、M字形に並行して隣接する上部側の長さ約20 m、比高3-6 mの小さなリッジをプロテーラス ランパートと認定している[37]

この堆積地形の表面はほとんど植生がなく巨礫で覆われている。堆積地形の傾斜方向の長さは中央部付近で140 m、幅は524 mと3つのカール中で堆積部の面積が最も大きい。M字形のリッジの頂部からカール外郭をなす圏谷壁直下崖錐までの水平距離は平均で99 m、一方で北側の堆積岩塊のリッジだけに焦点を当てれば圏谷壁直下崖錐までの距離は30 m以内であり、圏谷壁面から供給された落石を含むプロテーラス ランパートである可能性が高い[38]。一方で中央付近の堆積岩塊は下流方向へ舌状に張り出す形状をしているため、この岩塊地形が長い年月をかけ流動したことを示唆しており、堆積地形上のリッジは岩石氷河の中身(永久凍土)の融解に伴う上面の低下や陥没によって生じたものと考えられている[34]

いずれにしても金作谷カールのM字形堆積地形は、モレーンや落石が堆積したもののみで形成されたのではなく、複合的な要因が影響しているとみられ、傾斜斜度や表層部の角礫などの特徴を各国の岩石氷河地形の傾向と照らし合わせ、薬師岳の他の2つの圏谷と同様に化石岩石氷河であると推定されている[39]

さらに見る カール名, 南カール ...

調査史と天然記念物の指定

薬師岳圏谷の発見

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山崎の論文の冒頭部
1902年(明治35年)に日本で最初に氷河地形が報告された山崎による論文「氷河果たして本邦に存在せざりしか」の冒頭部。

圏谷もしくはカールといった氷河地形の概念が日本になかった頃より、薬師岳東側斜面にある圏谷地形は越中の一部の人々には知られていたようで、記録の残る最古のものとして1815年文化12年)の『有峯御薬師参詣』に次の一文がある。

御嶽(薬師岳山頂のこと)四・五丁手前の右手の立ヒラ中段、カラ地獄とて石積様のカ所数多あり。廣瀬誠、『薬師岳と岳麓有峰をめぐって』より一部改変引用[42]

この中の「石積様のカ所」とはカールの堆石堤のことであろうと元富山県立図書館長で富山県の郷土史家の廣瀬誠は指摘しており、1894年(明治27年)に刊行された志賀重昂の『日本風景論』でも「薬師岳頂上に甚だ斎整せる旧火口あり」と記され、志賀は圏谷地形を火口に見立てている[42]

薬師岳の圏谷群を氷河地形として発見、あるいは最初に報告したのは、日本の氷河地形研究の基礎を築いた地理学者の山崎直方である。山崎は同じく立山連峰にある山崎カール(山崎圏谷)の発見者として知られているが、薬師岳の圏谷に関する学会における報告も行っており、1905年明治38年)に刊行した『地学雑誌』に「高山の特色」の題で山崎が記載した内容が、薬師岳の圏谷に関する最初のレポートである[43]

つづく報告事例は1910年(明治43年)の日本山岳会の刊行物『山岳』第5巻第1号の巻頭部に、応用化学者の辻本満丸が寄稿した「越中薬師岳及上ノ岳[注釈 5]」の同山域における紀行文であり、山崎、辻本いずれの記述からも、薬師岳の圏谷群が氷河作用による著しい地形的特徴を示すものであることが知られるようになった[43]。薬師岳圏谷を実際に踏派したのはこの紀行文を記した辻本満丸であり、最初の写真を撮影したのは次節で解説する辻村太郎の従兄にあたる同郷の神奈川県小田原市出身で園芸家登山家辻村伊助である[44]

比較的アクセスのよい山崎圏谷とは異なり、薬師岳の圏谷群は当時も訪れるのが容易でなく、圏谷に近付かなければ観察できないカール底の堆石の詳細など、ミクロな視点での現地資料は少ないが[43]、地形全体をマクロの視点で見れば、これが圏谷であることは疑いようがなく、近隣の山々から眺めるだけで氷河地形であるのは明らかであった[24][45]

辻村太郎と天然記念物の指定

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西側の祐延峠付近から望む薬師岳。薬師岳の西斜面はに圏谷地形は見られない。2012年9月17日撮影。

日本で国の天然記念物の制度が発足したのは、1920年大正9年)6月1日に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法によるものであるが、氷河遺跡、氷河地形を対象とした国指定の天然記念物は長らく存在しなかった。山崎や辻丸による薬師岳の圏谷に関する記事を知った地理学者の辻村太郎は、1913年(大正2年)の『地質学雑誌』20巻において「本邦のカールは氷河之を形りしや否や(承前)」と題する論文を掲載した。この中で辻村は山崎が報告した薬師岳のカール群について、富山平野側から見た場合カールのある東面を見ることができないため、山の片斜面にカールリングのある半面カールリング(ドイツ語: Halb karling/原文もドイツ語が併記)であるとして、南東側の水晶岳方面から遠望したカール群のスケッチを掲載しているが、文中では南側から順番に第1から第4までのナンバリングで呼んでおり固有名の記載はない[25][46]

このうち第4とした圏谷は、第3圏谷(金作谷カール)の北側尾根を隔てた北薬師岳北東面にあるものであるが、形状が崩れ不明瞭であるため今日では圏谷地形として扱われることは少ない。1940年(昭和15年)に『日本アルプスと氷期の氷河』(岩波書店)を発表した地形学者の今村学郎も同書の中で、薬師岳の圏谷群(第1から第3)が標識的な形態であるとしつつも、辻村が示した第4の圏谷を氷河地形とは認定していない[12]

少し先の話になるが、最初に岩石氷河の可能性を指摘した小林国夫も、前述した1955年(昭和30年)に出版した『日本アルプスの自然』の写真説明で、薬師岳の第1から第3圏谷、すなわち南カール、中央カール、金作谷カールの3つを、北アルプスで最も見事な圏谷であると紹介している[12]

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辻村による薬師岳の圏谷群のスケッチ。1913年(大正2年)発表の論文「本邦のカールは氷河之を形りしや否や(承前)」に記載された。

1913年(大正2年)に薬師岳の圏谷の論文を発表した辻村は、薬師岳の圏谷(カール底)を自分自身の目で直接観察することが30年来の望みであったが、1942年(昭和17年)になり新たに「氷雪の浸食による地形」を対象とした国の天然記念物候補の第一例目に薬師岳の圏谷群が選定され、辻村は薬師岳の現地調査を担当する機会を得た。また、薬師岳の圏谷の現地調査は旧知の旧制富山高校(新制富山大学の前身)の石井逸太郎との長年の約束でもあったという[43]

辻村は1942年(昭和17年)7月29日に富山市に入り、翌30日より富山県の調査委員吉村庄作、富山県庁の中川作次郎、立山の芦峅寺山岳案内人2名をはじめとする10代から70代の総勢10名ほどのグループで薬師岳圏谷を訪れた[47]。今日のように薬師岳最寄りの登山口の折立まで車道は通じておらず、富山地鉄立山線本宮駅から先は当時建設中であった有峰ダムの工事用軌道に乗り、途中からの行程はすべて徒歩であった。初日は有峰の宿舎へ投宿し、案内人の先導で数日をかけて薬師岳を目指し、立山連峰主稜線上の太郎兵衛平にある小屋(今日の太郎平小屋)に着いたのは8月1日であった[48]

翌8月2日、早朝5時30分より薬師岳山頂への登攀を開始し、祠のある山頂には午前10時に到着した。辻村はただちに中央カールと金作谷カールの間の尾根を駆け下りて、念願のカール底に降り立った[49]

天候は快晴で空気の澄んだ夏空が高く広がり、周辺はチングルマの果実の白い毛や、ハクサンイチゲなど高山植物の花々が咲き乱れ[49]、長年思い描き続けたカールの底を自分の足で踏みしめた辻村は、その感動を次のように記している。

この圏谷へ降り立つ登山者は稀だと思うが、その静寂境はまことに去りがたかった。西風に吹き送られる雲の影は、圏谷壁を逆落ちしに舞い下り、微風は目にぬくもった背中をなでる。乾いた草原の上に仰臥して、白雲の動くのを眺めたり、また起き上がって遠近の山を眺めたりする。辻村太郎、『薬師岳登山記』より一部改変引用[50]

こうして巡検を終えた辻村によるレポートがまとめられ、薬師岳の圏谷群は1945年(昭和20年)2月22日に国の天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日には特別天然記念物に格上げされて今日に至っている[2][3]。なお、資料に添付された5万分の1地形図では、今日では圏谷群に含めないことが多い北薬師岳北東側の圏谷(第四圏谷)も含めた、合計4つの圏谷が圏谷壁の形状と共に図中で示されている[51]

官報告示(昭和二十年二月二十二日)文部省告示第三十四号
史蹟名勝天然紀保存法一条ニ依リ左ノ通指定ス。
第一類 天然紀念物。
名称 薬師嶽ノ圏谷群
地番 富山県新川郡大山村字黒部別割
地域 国有林第六十八林班い小班二百十四町二段

昭和20年2月22日。文部大臣 児玉秀雄[52]

官報告示(昭和二十八年七月八日)文化財保護委員会告示第五十三号
文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第六十九号第二項の規定により、昭和二十七年三月二十九日付をもって、天然記念物薬師岳の圏谷群(昭和二十年文部省告示第三十四号)を特別天然記念物に指定した。

昭和28年7月8日。文化財保護委員会委員長 高橋誠一郎[44]

日本アルプスにおける氷河地形研究の変遷

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圏谷の形成過程イメージ。
氷河の氷体“Glacial Ice”が溶けながら岩片を摘み取り“Zone of Plucking”流れ下り、摩耗ゾーン“Zone of Abrasion”を経て、モレーンが集積“Terminal Moraine”する。

日本の氷河地形研究は1880年(明治13年)にジョン・ミルン が行った講演「日本における氷河期の証拠(氷河地形の発見)」に端を発し[8]、それ以降100年以上に及ぶ学会内外での相反する仮説や考察が繰り広げられてきた[53][54]。その大きな要因は、日本における氷河地形と氷河の定義が曖昧であったことが大きい[55]

今日ではGPSを利用した氷体の移動観測が可能になったことで、日本アルプスに氷河が現存していることが証明されているが、かつては日本に氷河が存在したのか否かについての論争が長期間にわたり続いていた。ヨーロッパアルプス北極圏などの現在進行形で活動を続ける氷河や形成途上にある氷河地形と異なり、日本における氷河地形の成因考察の前提にあったものは「かつて氷河期に活動した氷河によるもの」、すなわち過去に形成された地形として捉えられていたため(その意味で日本では氷河遺跡と表現された)、研究者によって解釈が異なることが多分にあった[8]

薬師岳の圏谷群も全体的な地形がカールであることは論を俟たないが、ここまで解説したようにカール底の岩屑や岩塊などの堆積物に関する研究や解釈は、世界的な氷河地形研究の進展とともに二転三転している。圏谷群発見当初は圏谷内の堆積物をすべて氷河作用由来とする考え方が主流であったが、1950年代頃になると一部の堆石岩塊は圏谷形成後に起きた落石(プロテーラス ランパート (en:Protalus rampart) )も含むと考えるようになり[28]、20世紀終盤には岩石氷河 (en:Rock glacier) の概念が広まり、薬師岳の圏谷群の堆積物(山岳氷河の堆積物)に関しては、モレーン、プロテーラス ランパート、岩石氷河から構成されているものと考えられている[39]

21世紀に入ると、これまであまり重視されてこなかった重力地形と呼ばれる、匍行ほこう落石崩落、ランドスライド(地すべり)、土石流陥没など、大きな意味で重力を要因とする地形変化や地形形成の考え方が日本の地形学会内で急速に発展し、斜面の傾斜が大きい日本アルプス各所の氷河地形に見られる堆積物や、斜面の微地形の成因が再考されるようになった[56]

実際に2010年代以降になると、専修大学の苅谷愛彦らのグループによる重力地形の考え方を前提にした調査が日本アルプス各所で行われ、従来氷河地形であるとされてきた白馬岳東南麓の、松川北股入(白馬大雪渓の下流部)のモレーンのほとんどがランドスライド地形とされ[57][58]蝶ヶ岳東面の烏川上流の堆積物を含む氷河地形とされてきた地形は、大規模崩壊によって形成されたものと結論付けられた[57]。このように日本アルプス各所の比較的標高の低い位置にある氷河地形由来とされてきた地形の多くが、重力地形(厳密には重力移動堆積物)であると考えられるようになり、改めて重力地形の見地に立った研究や調査が行われている[59]

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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