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藤原元輔

日本の平安時代の公家 ウィキペディアから

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藤原 元輔(ふじわら の もとすけ)は、平安時代中期の公卿藤原北家右大臣藤原顕忠の長男。官位正四位下参議

概要 凡例藤原 元輔, 時代 ...

経歴

左兵衛少尉右衛門少尉左近衛将監といった武官や六位蔵人を経て、朱雀朝末の天慶8年(945年従五位下侍従に叙任される。のち、天暦6年(952年)従五位上、天暦10年(956年正五位下と昇進する傍ら、左兵衛佐・近衛少将や五位蔵人を務め、天徳2年(958年)には従四位下・右近衛中将に叙任される等、村上朝の中期以降は父・顕忠の昇進に伴って、元輔自身も武官を歴任しながら順調に昇進した。

応和3年(963年)従四位上、康保4年(967年)左近衛中将を経て、安和元年(968年冷泉天皇蔵人頭に任ぜられる。しかし、安和2年(969年円融天皇即位に伴って蔵人頭に任ぜられた源保光藤原為光が、翌安和3年(970年)に蔵人頭在任1年程で参議に任ぜられる一方で、元輔は蔵人頭を5年務めて天禄3年(972年)になってようやく参議に任ぜられ公卿に列している。

元輔は時平の男系の孫では唯一公卿に列せられたが、円融天皇摂政となっていた伊尹太政大臣)を筆頭に兼家権大納言)・兼通権中納言)・為光(参議、元輔より2年早く任官)、他にも実頼の子である頼忠右大臣)・斉敏(参議)と既に忠平の孫世代では6人も公卿に列せられており、時平の系統はますます振るわなくなっていた。

天延2年(974年正四位下に叙せられるが、翌天延3年(975年)10月17日卒去享年60。最終官位は参議治部卿正四位下兼美濃権守。この後、時平の男系子孫で公卿に昇った者はなく、元輔が時平流で最後の公卿となった。

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官歴

公卿補任』による。

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系譜

  • 父:藤原顕忠
  • 母:藤原朝見の娘
  • 妻:橘懐樹の娘
    • 男子:藤原信義
    • 男子:藤原為義

近世大名生駒氏は元輔の子孫を称した。

脚注

出典

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